寺崎英成
てらさきひでなり 寺崎 英成 | |
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生誕 |
1900年12月21日 神奈川県[1] |
死没 | 1951年8月21日(50歳没) |
国籍 | 日本 |
職業 | 外交官、元宮内省御用掛 |
活動期間 | 1927年 - 1948年 |
寺崎 英成(てらさき ひでなり、1900年(明治33年)12月21日 - 1951年(昭和26年)8月21日)は、日本の外交官、元・宮内省御用掛。
来歴・人物
[編集]1900年、貿易商・寺崎三郎(福岡藩出身)の二男として神奈川県に生まれた。兄は、外交官・寺崎太郎[2]。暁星中学より旧制一高を経て東京帝大法学部を中退し[3]、1927年に外務省入省。ブラウン大学に公務留学。1931年、ワシントンD.C.の日本大使館在勤中に米国人グエンドレン・ハロルド(Gwen Harold, 1908-1990)と出会い結婚。
その後、上海(勤務時に娘マリコが出生)、ハバナ、北京など在外勤務を経て、1941年に再びワシントンの日本大使館に赴任。情報担当の一等書記官として、野村吉三郎・来栖三郎両大使を補佐して日米交渉に当たった。日米開戦直前には、親電工作(ルーズベルト大統領から昭和天皇への親書発出工作)に奔走した。
太平洋戦争開戦後は抑留され、1942年8月に、妻グエン、娘マリコと共に日米交換船で帰国。戦争中は外務省の政務局第7課や第6課の課長を務めたが、病気のため1944年12月からは休職し、そのまま終戦をむかえた。占領期では、1947年2月、宮内省御用掛(通訳)に任命され、昭和天皇とマッカーサー元帥との会見の通訳を数回務めると共に、GHQ側と戦犯関係を含む情報を交換提供した。激務により脳梗塞で倒れ、1951年に50歳で死去。
1957年にグエン夫人は、回想記『Bridge to the Sun : A Memoir of Love and War』[注釈 1]を刊行。1961年夏にMGM映画『Bridge to the Sun 太陽にかける橋』が製作公開された。
1980年夏に柳田邦男のノンフィクション『マリコ』が刊行。1981年8月にはNHKの終戦特番・三時間ドラマ『マリコ』(主演の寺崎役は滝田栄、マリコ役はキャロライン洋子)が放送された。
1990年のグエン夫人の没後に、娘マリコの家族が遺品(夫人が保管していた文書類)より、昭和天皇が侍従等の側近相手に、帝国日本の内情や開戦に至るまで経緯などが、率直に語られた記録(昭和天皇独白録)[注釈 2]を発見、月刊『文藝春秋』1990年12月号で公表され多大の反響を呼んだ。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 初訳版は『太陽にかける橋』(新田満里子訳、小山書店新社、1958年)
- ^ 1947年3月~4月にかけて、松平慶民宮内大臣、松平康昌宗秩寮総裁、木下道雄侍従次長、稲田周一内記部長、そして寺崎英成御用掛の5人の側近が、張作霖爆殺事件から終戦までの経緯を4日間計5回にわたって昭和天皇から直々に聞き、まとめたもの。