勢真院
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勢真院(せいしんいん、生年不詳 - 天保6年1月11日(1835年2月8日))は、江戸幕府第11代将軍・徳川家斉の側室。俗名は満、または万(お万の方[1])、満武[2]。
家斉の最初期の側室で、家斉の第一子である淑姫、長男の竹千代(夭折)など、1男3女を生んだ。
生涯
[編集]父は幕府旗本の平塚為善(為喜)[1][注釈 1]。母は松浦信秀[注釈 2]の娘[1]。
寛政元年(1789年)3月25日、家斉との間に淑姫(後に尾張藩第10代藩主・徳川斉朝正室)を出産[2][3]。淑姫は家斉の長女(第一子)である。出産後の4月に老女上座格となった[2]。
寛政2年(1790年)10月1日に家斉の二女(第二子)を生むが命名前に死去(法名の院号は瓊岸院)[2][4]。
寛政4年(1792年)7月13日には家斉の長男(第三子)・竹千代を出産するが[2][5]、翌寛政5年(1793年)6月24日に夭折(法名の院殿号は孝順院殿)[5]。寛政5年(1793年)9月、お万の方は「御内証御方」となる[2]。
寛政8年(1796年)7月11日に家斉の三女[注釈 3]・綾姫を出産[2][6]。寛政9年(1797年)閏7月3日、綾姫と仙台藩主・伊達政千代(周宗)との婚約が成立するが、寛政10年(1798年)3月28日に夭折した(法名の院号は麗玉院)[6][注釈 4]。
天保6年(1835年)1月11日、死去。戒名は勢真院登譽宝岸了智大姉。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d 『寛政重修諸家譜』巻第千三百四十七「平塚」(国会図書館デジタルコレクション:国民図書版第8輯)
- ^ a b c d e f g h i 『幕府祚胤伝』七「御内証御方」(国会図書館デジタルコレクション:国書刊行会編『柳営婦女伝叢』p.341)
- ^ 『幕府祚胤伝』七「淑姫君」。『徳川諸家系譜2』(八木書店)p.149。(国会図書館デジタルコレクション:国書刊行会編『柳営婦女伝叢』p.347)
- ^ 『幕府祚胤伝』七「姫君」。『徳川諸家系譜2』(八木書店)p.151。(国会図書館デジタルコレクション:国書刊行会編『柳営婦女伝叢』p.348)
- ^ a b 『幕府祚胤伝』七「竹千代君」。『徳川諸家系譜2』(八木書店)p.151。(国会図書館デジタルコレクション:国書刊行会編『柳営婦女伝叢』p.349)
- ^ a b 『幕府祚胤伝』七「綾姫君」。『徳川諸家系譜2』(八木書店)p.153。(国会図書館デジタルコレクション:国書刊行会編『柳営婦女伝叢』p.351)