簡文帝 (東晋)
簡文帝(かんぶんてい)は、東晋の第8代皇帝。諱は昱、字は道万[1]。初代皇帝元帝の末子。
簡文帝 司馬昱 | |
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東晋 | |
第8代皇帝 | |
王朝 | 東晋 |
在位期間 |
咸安元年11月15日 - 咸安2年7月28日 (372年1月6日 - 9月12日) |
都城 | 建康 |
姓・諱 | 司馬昱 |
字 | 道万 |
諡号 | 簡文皇帝 |
廟号 | 太宗 |
生年 | 大興3年(320年) |
没年 |
咸安2年7月28日 (372年9月12日) |
父 | 元帝 |
母 | 鄭夫人 |
后妃 |
簡文順皇后王氏(追贈) 文皇太后李氏 |
陵墓 | 高平陵 |
年号 | 咸安 : 371年 - 372年 |
生涯
編集即位前
編集利発であったことから父に愛された[1]。永昌元年(322年)、元帝により琅邪王に封じられた。咸和2年(327年)、生母の鄭阿春が没すると服喪のために会稽王に改封し、散騎常侍を拝命された[1][2]。咸和9年(334年)、右将軍・侍中となり、咸康6年(340年)に撫軍将軍・秘書監を兼ねた。建元元年(343年)、宗廟を管轄する太常の官が加わり、永和元年(345年)に撫軍大将軍・録尚書六条事に就いた。永和2年(346年)、褚太后の詔命により政務を総括して始め、東晋朝廷の実質的な最高決定権者となった。以降、皇族の長老として数代に渡って若き皇帝を補佐する立場にあった[1]。
永和8年(352年)、司徒の位を授かったが、固辞した。穆帝が元服を行った後、庶政を返すと請じたが、許されなかった。興寧3年(365年)、廃帝(海西公)の即位に伴い再び琅邪王に改封し、会稽王の爵位は六男の司馬曜(後の孝武帝)が継いだが、司馬昱自身は相変わらず会稽王と呼ばれた。太和元年(366年)、丞相に任じられた[1]。
即位
編集太和4年(369年)、前燕に対する北伐に出た桓温が枋頭の戦いで慕容垂に大敗した[3][4][5]。その威勢が失墜したため、桓温はこれを挽回しようと太和6年(371年)11月に入朝し、従孫の皇帝海西公(長兄の明帝の孫)を男色に溺れているとして褚太后に進言して廃した。同月己酉(372年1月6日)には司馬昱を皇帝として擁立した[6]。このような経緯から簡文帝は桓温の傀儡であり、桓温の言うままに皇族・官吏の任免や賞罰が行われた[7]。
崩御と遺詔
編集即位の翌年である咸安2年(372年)7月に病に倒れ、53歳で死に臨んで桓温に皇位を禅譲しようと考えた[1][7]。そして、遺詔として「太子(司馬曜)が輔けるに足る人物なら輔佐してもらいたい。もしだめなら、温自ら位を取るがよい」と作成した[7][8]。しかし、侍中の王坦之が簡文帝の前で遺詔を破ってしまい「天下は宣帝・元帝の天下であり、陛下がご勝手になさる事はできませぬ!」と一喝した[9]。さらに謝安の奇策により「国事は一様に桓温に稟議し、諸葛武侯・王丞相の故事の如くせよ」と改めて崩御した[10]。
このような経緯から次の皇位をどうするかで意見は紛糾したが、謝安・王坦之・王彪之らの尽力で12歳の孝武帝が承継した[4][11]。
人物
編集若い頃から風格があり、容姿も美しかった。見識もあり、物静かで落ち着いた性格の人物だったが、政治手腕には欠けていた。謝安は彼を「恵帝の類いの人物で、清談にやや優れているだけ」と評している。支遁は「会稽王の容姿は奥深いようだが、精神はそうではない」と皮肉っており、謝霊運は彼の事績から、赧王・献帝の類いであると評した[1]。
逸話
編集- 撫軍将軍として在任する頃、椅子のほこりも拭かず鼠の足跡を見て兆候を予測した。ある日、真昼に鼠が歩き回るのを見た参軍の一人が手板を投げて鼠を殺すと、会稽王は不愉快な気配を見せた。他の幕僚がその参軍を弾劾したが、会稽王は「鼠が殺されたことも忘れられなかったのに、そのことを再論して人さえ失うことはできないのではないか!」と教え諭した[12]。
- 丞相となり輔政に就ける間、朝廷で取り扱うべき事案があっても、年を越して裁決するのが常であった。業務処理が遅いことに不満を抱いていた桓温から頻繁に催促されたが、その度に「一日の万機をどうして早く得ることができるのか?」と答えた[13]。
- 当代の名士らと交遊しながら風流を楽しむ一方、いつも端正な身だしなみを守った。桓温や武陵王司馬晞と共に馬車に乗って外出した際、桓温は二人を試すために馬車の速度を上げ、部下に鼓を打ったり角笛を吹かせた。武陵王は驚いて馬車から飛び降りようとしたが、会稽王は平気な顔で恐れる気色すらなかった。これを見守った桓温は内々会稽王に感服したという[1][14]。
- 宮城の外苑である華林園に行幸した際、左右の臣下に「心にあう所が必ずしも遠くにあるわけではない。鬱蒼な森林と水を見るに、濠水や濮水にいるような気がする。鳥獸や魚も自ら人間に近づいてくるのを感じることができるんだ」と詠んだ[15]。
- 皇室の貴公子として育ってきたせいか、世間知らず面もあった。ある日、田畑の稲を見た簡文帝は「これは何の草なのか?」と気になり、どのように使われる穀物なのかさえ見分けがつかなかった。それが稲という答えを聞いて還宮した後、三日間も閉じ籠もったまま「本当にその端(米)に頼りながらも、根本は知らなかったよ!」と悔やんだという[16]。
- 簡文帝が即位した直後、朝廷の実権を握った桓温は武芸に長けた武陵王司馬晞を警戒し、彼を除去しようとした。桓温は武陵王が反乱を企てたと讒訴し、その一族の粛清を請じたが、簡文帝は許さなかった。桓温が再び武陵王の処刑を上奏すると、簡文帝は「運命が晋に味方するならば、公(桓温)は前日の詔を奉行すべきだが、晋の大運が尽きたならば、賢路のために避けてあげるよ」という詔を下した。この詔を受けた桓温は慌てたあまり、武陵王の処刑をこれ以上強要せず、彼を新安へ追放させるに止まった[1]。
- 会稽王時代の正室であった王簡姫との間に司馬道生・司馬兪生を産んだが、道生の操行が悪かったために母子は廃嫡された。残りの四人の息子もみな早世した。その後、姫妾らごとに妊娠できなかったのが10年近くなると、会稽王は占いをした。占い師は「後房のある女性が二人の公子を産みそうですが、その一人は晋室の盛んであるのを終えられます」と語った。数年後、術士に愛妾を調べさせたが、相応しい人物を見つけることができず、女婢まで訪ね歩かせた。当時、宮中の織坊にいた李陵容という宮人は背が高く、肌色も黒いので「崑崙」と呼ばれた。李陵容を見た術士は「まさにこの人です」と指目し、会稽王の側室になった彼女は孝武帝や司馬道子を産んだ[17]。
- 太和6年(371年)閏10月、熒惑が太微垣の端門を守る星変をめぐって「天子は亡国に遭い、諸侯・三公がその以上を図るだろう」という占兆が出てきた。翌月に海西公が桓温により廃位され、会稽王が簡文帝として擁立されるに至った。同年12月、熒惑が太微垣に入ると、これを嫌った簡文帝は桓温の側近であり、入直中の中書郎の郗超に「天命の長短は計り知れないけれども、最近の出来事が繰り返されるのではないか?」と尋ねた。郗超は「大司馬桓温は内部へは社稷を強固にし、外部へは経略の意志を持っています。非常事態が発生すれば、臣が百人の命として保障致します」と答えた。簡文帝は「尊公(郗超の父の郗愔)にお伝えてくれ。皇室と国家がこのような状況になったのは、私が道理として正しく守れなかったためだ。実に恥ずかしくても嘆かわしいのに、諭す言葉をどうするか!」と言っていたけれど、庾闡の「志士は朝廷の危急さを痛嘆し、忠臣は君主の辱めることを悲しむ」という詩を詠みながら泣き崩れた[1][18]。
宗室
編集脚注
編集- ^ a b c d e f g h i j 『晋書』巻9, 簡文帝紀
- ^ 『晋書』巻7, 成帝紀
- ^ 駒田 & 常石 1997, p. 113.
- ^ a b 川本 2005, p. 129.
- ^ 三崎 2002, p. 76.
- ^ 駒田 & 常石 1997, p. 115.
- ^ a b c 駒田 & 常石 1997, p. 116.
- ^ 蜀漢の劉備が諸葛亮にした遺詔と同じである。
- ^ 『晋書』巻75, 王坦之伝
- ^ 『晋書』巻98, 桓温伝
- ^ 駒田 & 常石 1997, p. 117.
- ^ 『世説新語』第1, 徳行篇37
- ^ 『世説新語』第3, 政事篇20
- ^ 『世説新語』第6, 雅量篇25
- ^ 『世説新語』第2, 言語篇61
- ^ 『世説新語』第33, 尤悔篇15
- ^ 『晋書』巻32, 孝武文李太后伝
- ^ 『晋書』巻13, 天文志下
伝記資料
編集- 『晋書』巻9 帝紀第9 太宗簡文皇帝