【明慧日本2019年9月28日】寛大で辛抱強く、度量の大きい事は伝統的な美徳です。人が世渡りをする中で、我慢することができれば、多くの必要のないトラブルから避けられ、人と優しく付き合うことができることは、とても高く評価されるべきことです。中国の伝統文化に感化された古代の人々は寛大で忍耐強く、このような品格を我々現代人も学ばなければなりません。
(一)
「刃物で傷つけられることは我慢できても、誹謗中傷されることは我慢できない」とよく言われます。それでは、古代の人々はどのように誹謗中傷に対応していたのでしょうか?
終始弁解をしない
一、北宋の時、蔡襄(さい じょう:1012年~1067年 中国宋代の書家・文人)が会霊東園で酒を飲んでいた時、その席である客が矢を射ち、誤って観光客を負傷させました。しかし、その客は蔡襄が矢を射って、観光客を負傷させたと嘘を言いました。すると、京城では噂がたちまち広まりました。それを聞いた皇帝は蔡襄に真偽を問うと、蔡襄はただただ叩頭して許しを請い、終始自分のための弁解はせず、宮中から帰って来ても、誰にもこの真相を明かしませんでした。
二、東晋(とうしん:317~420年)の頃、高防と言う人がいました。彼はかつて澶州防御史・張従恩の判官でした。当時、段洪進と言う軍人がいて、官府の木材を盗んで自分のための家具を作りました。それを聞いた張従恩はとても怒り、段洪進を処刑しようと考えました。段洪進は自らを守るため、「すべては高防が私にそうさせたのです」と嘘を言いました。張従恩は高防に本当かどうかを確かめると、高防はそれを認めました。そして、段洪進は処刑されることから免れました。
そこで、張従恩は銭1万貫(およそ9億円)と馬1匹を高防に送り、彼を追い出しました。高防はとても平然として立ち去り、終始自分の無実を主張しませんでした。しかし、その後、張従恩は自分の決断に後悔し、部下に高防を追いかけさせ、彼を連れ戻させました。1年後、張従恩は側近から「高防が罪を認めたのは、人の命を救うためだった」と聞かされました。真実を知った張従恩はとても驚き、高防の事をより一層尊敬するようになりました。
(二)
他人に金銭を施すことは難しくないかも知れませんが、自分の財産に損害を与えた人に優しくすることは、誰にでもできる事ではありません。
お金が見つかっても、それを認めない
張知常が太学(古代の教育体系においては最高学府にあたり、官僚を養成する機関である)にいた頃、家族は人に頼んで彼に十両のお金を届けました。同じ寝室の者が張知常が留守をしている間に、彼の箱を開けお金を盗みました。管理人は同じ寝室の人を集めてお金を探させました。すると、お金が見つかりました。しかし張知常はこの時なんと、「これは私のお金ではない」と認めませんでした。
お金を盗んだ同じ寝室の人は、夜にこっそりとお金を張知常に返しました。それを知った張知常は、彼がとても貧しいことを知っているため、お金を半分彼に分け与えました。その後、人々は皆、「人にお金をあげることは、他の人でもできることですが、お金が見つかっても、自分のものだと認めないことは、誰もができることではない」と張知常を称賛しました。
泥棒を良民に変えさせた
曹州の于令計はもともと普通の平民でした。彼は正直で温厚な性格をしており、他人の利益を損なうことは決してせず、晩年はとても裕福な暮らしをしていました。ある夜、彼の家に泥棒が入りました。息子達が泥棒を捕まえると、近所の子だと分かりました。于令計は泥棒に、「おまえは普段悪い事をしない子なのに、どうして泥棒をしたのか」と聞くと、 その子は「家が貧し過ぎて仕方ありません」と答えました。そこで、于令計は彼にどのくらいのお金が必要かと聞くと、その子は「1万銭があれば、十分な食べ物と服を買えるから」と言いました。于令計は彼が言った通りのお金を与えました。その子がお金をもらって帰ろうとした時、于令計はまたその子を引き留めました。その子はとても怖くなり、于令計が後悔して自分を通報するのではないかと思いました。
しかし、于令計はその子に「おまえは貧しいのに、1万銭を持っていると、夜のパトロールの者に取り調べられたら困るであろう」と言って、彼を夜が明けるまで家に引き留めました。泥棒は非常に恥ずかしくなって、ついに足を洗って良民になることを決心しました。郷里の人は皆、心優しい于令計を褒め称えました。于令計はまた学校を作り、優秀な子供を選び、有名な先生を要請して教えさせました。そして、彼の息子と甥の于傑効も相次いで科挙に合格し、彼の一家は曹州南地域で名家になりました。これも彼が善事を行なうことによって得た福報でした。
(三)
寛容は放任に等しくありません。自分を傷つけた人を寛大な態度で対応することができても、国を治めることとなると、才徳兼備(※1)の人を選ばなければなりません。
北宋の名宰相・張齊賢(943年~1014年)が右拾遺から江南の轉運使に昇進した時のことでした。ある日、彼は家で宴会を開いていると、ある召使いが数個の銀製の食器を盗んで懐に隠しました。張齊賢はカーテンの後からその一部始終を目撃しました。しかし、彼は黙って何も言いませんでした。晩年、張齊賢は宰相になり、彼の多くの召使いの人も官吏に昇格しましたが、銀食器を盗んだ召使いだけは官職も俸禄もありませんでした。
召使いは張齊賢の前で長く跪いて泣きながら、「私は最も長くあなたのお世話をしてきました。私よりも後に入った人が官吏に昇格しましたが、どうして私だけは忘れられたのでしょうか」と訴えました。張齊賢は同情してみせましたが、「本当は言いたくないのだが、お前は江南でのことを覚えているか? あの時お前は銀食器を盗んだ。この事をわたしは心に30年も隠して、誰にも言っていない。お前も知らされていないであろう」と言って諭しました。
「今、わたしは宰相になり、官吏を任免する立場になったが、わたしは才徳兼備の人しか起用しない。泥棒を役人に推薦することができると思うか? お前はわたしの世話を長くしてきた。その苦労を考慮して、今、お前に30万銭を与えるから、もうここから離れなさい。この件はすでに知られたから、お前も恥ずかしくてここにはいられないだろう」と言いました。召使いは非常に驚き、泣きながら別れを告げました。
程頤(てい い:中国北宋時代の儒学者)はかつて、「我慢できないことを我慢し、寛容できないことを寛容することは、普通の人より度量の大きい人しかできないことだ」と言いました。また陸遊(りく ゆう:南宋の政治家で詩人)は詩の中で、「忿欲至前能小忍……」、つまり「怒る前に少し我慢ができる」と言い、杜牧(と ぼく:中国晩唐の詩人)も「忍过事堪喜」、つまり「耐え忍べば、悩みが消える」とも言いました。
これらの古代の賢者たちの言葉はとても素朴で誠実なものです。現代人は派手で物欲に満ちた生活をしており、特に中国の場合、中国共産党の偽・悪・闘の党文化に惑わされているため、我々はもっと心を落ち着かせ、古人の寛大で辛抱強くて、思いやりのある虚心坦懐(※2)から学ばなければならない。
出典:
元・呉亮 『忍経』
※1 才徳兼備(さいとくけんび:すぐれた才知と人徳を兼ね備えていること)
※2 虚心坦懐(きょしんたんかい:心にわだかまりがなく、気持ちが素直でさっぱりしていること)