千秋実

日本の俳優(1917−1999)

千秋 実ちあき みのる[2][3]1917年大正6年〉4月28日[2][4] - 1999年平成11年〉11月1日[4])は、日本俳優。本名は佐々木勝治ささき かつじ。旧姓は森竹。

ちあき みのる
千秋 実
千秋 実
本名 佐々木 勝治ささき かつじ
旧姓:森竹
生年月日 (1917-04-28) 1917年4月28日
没年月日 (1999-11-01) 1999年11月1日(82歳没)
出生地 日本の旗 日本北海道中川郡恩根内村(現在の美深町
死没地 日本の旗 日本東京都府中市
身長 182 cm[1]
職業 俳優
ジャンル
活動期間 1936年 - 1999年
配偶者 佐々木踏絵
著名な家族
主な作品
テレビドラマ
映画
受賞
日本アカデミー賞
最優秀主演男優賞
1985年『花いちもんめ。
ブルーリボン賞
主演男優賞
1985年『花いちもんめ。』
その他の賞
毎日映画コンクール
演技特別賞
1985年
報知映画賞
特別賞
1985年『花いちもんめ。』
勲四等瑞宝章
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妻の女優佐々木踏絵とともに薔薇座を結成して舞台で活動後、映画俳優に転向し、黒澤明監督作品の常連俳優として活躍。テレビドラマでもホームドラマを中心に人気を得た。主な作品に『七人の侍』『隠し砦の三悪人』『花いちもんめ。』など。著書に妻との共著『わが青春の薔薇座』などがある。俳優の佐々木孝丸岳父にあたる。俳優の佐々木勝彦は息子(次男)[2]。女優の宮本信子の父親とは従兄弟同士であり、従兄弟の娘という関係性を説明するのが面倒との理由で宮本信子を姪と紹介していた。

来歴・人物

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1917年(大正6年)4月28日土曜日)、北海道中川郡恩根内村(現在の美深町)に、呉服・洋品雑貨店を営む森竹家の3男として生まれる[5]。幼少期に上砂川町に移住し小学校時代を過ごす。卒業後、札幌の北海中学校に入学[5][2]陸上部に所属し、400m走者・跳躍選手として活躍、母校の先輩になぞらえて「第二の南部忠平」と呼ばれるほどの有望選手だったが、足首捻挫で陸上競技を断念。子供の頃から芝居が好きだったことから俳優を志し、東京にいた兄を頼って上京、代々木名教中学(現・東海大学付属浦安高等学校)に転校する[5][6]

1936年(昭和11年)、中央大学専門部法科に入るが、芝居に興味を持って新築地劇団に研究生として入団[2]。同年11月の同劇団公演『女人哀詞』(山本有三原作)で初舞台を踏む[5]。同期には多々良純殿山泰司らがいた[7]。芸名は研究生時代に、劇団員で尊敬していた山本安英に付けてもらったという[8]1938年(昭和13年)3月、多々良らと共に関西公演の出発直前に劇団を脱退[9]。五月座を結成するが、翌1939年(昭和14年)3月、大学卒業と同時に兵役につき歩兵第26連隊に入隊、五月座は自然消滅する[5]。軍隊では樺太上敷香の国境警備隊に勤務し、1942年(昭和17年)7月に除隊、8月に佐々木孝丸の1人娘である女優の佐々木踏絵と結婚する[5]。その後、移動演劇隊・ほがらか隊の隊長として終戦まで各地を巡演する[5]

戦後の1946年(昭和21年)5月、踏絵夫人とともに薔薇座を結成し、久藤達郎原作の『新樹』を旗揚げ公演として神田一ツ橋共立講堂で上演する[5][10]。西洋演劇本位の新劇に反発して、日本の劇作家による、大衆性のある演劇を目指し[6]菊田一夫原作の『東京哀詞』『堕胎医』を始め、『お前もまた美しい』『長崎の鐘』『冷凍部隊』などの創作劇を上演、このときに現代劇という呼称を初めて使ったといわれている[5]。特に『堕胎医』の評判はよく、この舞台を観た黒澤明によって1949年(昭和24年)に『静かなる決闘』の題名で映画化された。これが縁で黒澤にすすめられて『野良犬』にレビュー劇場の演出家役で映画初出演する[5]。これを機に薔薇座を解散し、以降は映画俳優に転向する。

映画では一時、東京映画東映と本数契約を結んだこともあるが、フリーとして多くの映画に出演。特に黒澤作品には中心的脇役として計11本の黒澤作品に出演[2]。『隠し砦の三悪人』で藤原釜足と演じた農民コンビは、ジョージ・ルーカス監督の『スター・ウォーズ』に登場した2体のロボット(R2-D2C-3PO)のモデルとなった。

1960年代からはテレビドラマにも出演するようになり、乙羽信子と夫婦役を演じた『ママちょっと来て』でお茶の間の人気を集め[2]、その後も『肝っ玉かあさん』などのホームドラマに父親役で出演した。

1975年(昭和50年)、ドラマ『微笑』で高峰秀子と共演するが、生田スタジオで収録中に脳内出血で倒れ入院し、翌1976年(昭和51年)のドラマ『喜びも悲しみも幾歳月』で再起する[11]。そこに至るリハビリの過程は、1979年(昭和54年)に刊行した『生きるなり』(文藝春秋)につづられている。

1985年(昭和60年)、伊藤俊也監督の『花いちもんめ。』での老人役で第9回日本アカデミー賞最優秀主演男優賞、ブルーリボン賞主演男優賞など、数々の演技賞を受賞する。

1999年(平成11年)11月1日、急性心肺不全のため東京都府中市内の病院で死去。82歳没[12]。墓所は富士霊園

千秋の死去により、「七人の侍」を演じた俳優は全員が鬼籍に入った[13][14]

ロッテオリオンズ投手の村田兆治は近所に住んでいたこともあり、村田が右肘靭帯断裂を克服してカムバックした時は花束を持ってお祝いに行った[15]

受賞・受章歴

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出演作品

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映画

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羅生門』(1950年)
 
七人の侍』(1954年)

テレビドラマ

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著書

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脚注

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  1. ^ Internet Movie Database - Minoru Chiaki
  2. ^ a b c d e f g 東宝特撮映画全史 1983, p. 532, 「怪獣・SF映画俳優名鑑」
  3. ^ a b c ゴジラ大百科 1993, p. 124, 構成・文 岩田雅幸「決定保存版 怪獣映画の名優名鑑」
  4. ^ a b c 野村宏平、冬門稔弐「4月28日」『ゴジラ365日』洋泉社映画秘宝COLLECTION〉、2016年11月23日、116頁。ISBN 978-4-8003-1074-3 
  5. ^ a b c d e f g h i j キネマ旬報1979、p.361
  6. ^ a b 佐藤忠男『黒澤明解題』岩波書店〈同時代ライブラリー 23〉、1990年、209頁。ISBN 4002600238 
  7. ^ 新藤兼人『三文役者の死 正伝殿山泰司』岩波書店〈岩波現代文庫〉、2000年、27頁。ISBN 4006020171 
  8. ^ 砂古口早苗『起て、飢えたる者よ〈インターナショナル〉を訳詞した怪優★佐々木孝丸』現代書館、2016年、p.127
  9. ^ 国立劇場 編『近代歌舞伎年表』 京都篇 第10巻、八木書店、2004年、257頁。ISBN 4840692327https://books.google.co.jp/books?id=b1o0zB64qFYC&pg=PA257&dq=%E5%8D%83%E7%A7%8B%E5%AE%9F+%E6%96%B0%E7%AF%89%E5%9C%B0%E5%8A%87%E5%9B%A3&hl=ja&sa=X&ved=0CDMQ6AEwAmoVChMI-urp2cnjxgIVwZmUCh13TA8O#v=onepage&q=%E5%8D%83%E7%A7%8B%E5%AE%9F%20%E6%96%B0%E7%AF%89%E5%9C%B0%E5%8A%87%E5%9B%A3&f=false 
  10. ^ 大笹吉雄『日本現代演劇史』 昭和戦後篇I、白水社、1998年、196頁。ISBN 456003561X 
  11. ^ キネマ旬報1979、p.362
  12. ^ MOVIE Watch”. 2022年6月14日閲覧。
  13. ^ “俳優三船敏郎さんが全機能不全で死去、77歳”. 日刊スポーツ. (1997年12月25日). https://www.nikkansports.com/entertainment/news/1748327.html 2022年7月21日閲覧。 ウェブサイトは2016年12月25日の復刻版で、千秋による「これで七人の侍の中で残っているのは、僕一人だけになってしまいました。」というコメントがある。ただし、これには千秋の思い違いが含まれており、このあと稲葉義男が1998年に死去して、千秋が最後の一人となった。
  14. ^ 劇中では最初に戦死した侍役である。
  15. ^ 日刊スポーツ1985年4月15日3面「後援会員の俳優・千秋実さん」
  16. ^ 東宝特撮映画全史 1983, pp. 535–537, 「主要特撮作品配役リスト」

参考文献

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  • 『日本映画俳優全集・男優編』キネマ旬報社、1979年。 
  • 『東宝特撮映画全史』監修 田中友幸東宝出版事業室、1983年12月10日。ISBN 4-924609-00-5 
  • 『ENCYCLOPEDIA OF GODZILLA ゴジラ大百科 [メカゴジラ編]』監修 田中友幸、責任編集 川北紘一Gakken〈Gakken MOOK〉、1993年12月10日。 

外部リンク

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