かつて銭湯は「男女混浴」が当たり前だった…来日したペリーが目撃していた「衝撃の光景」

現代の価値観から見ると不思議に思えるけれど、実はつい最近まで行われていた近代の風習というものは数多く存在します。例えば、江戸時代まで日本人は羞恥心なく「裸」を人前に晒していて、銭湯で男女関係なく背中を流す「三助」という職業も存在していました。異端なもの、アウトサイダーなものを深く愛し、執筆活動を続ける杉岡幸徳さんが、江戸時代の銭湯にまつわる風習と、2010年代に出会った「三助」について紹介します。

銭湯で客の背中を流す「三助」

そういえば、「スーパー3助」という名前の芸人がいた。「ずいぶん大胆な芸名をつけるなあ」と私は感心していた。「三助」はほぼ放送禁止用語に近い扱いを受けているからだ。三助とは、銭湯で客の背中を流す仕事をしていた男である。三助の「三」は炊爨(すいさん)の「爨(さん)」で、もとはお湯を沸かすなどの雑用も担っていた。

三助は2010年頃までは細々と存続していたが、いまはほぼ絶滅している。少なくとも、男も女もかまわず背中を流す三助はもはや消滅している。そう、三助は男も女も差別なく背中を流していたのだ。それは、江戸時代の銭湯は男女混浴が多かったからである。

入り込み湯/葛飾北斎『北斎漫画 12編』より
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江戸時代の銭湯の多くが男女混浴だった

江戸の最初の銭湯は、1591(天正19)年に銭瓶橋(現在の中央区日本橋)に開店した。江戸は独身の男性が圧倒的に多く、埃っぽい町だったので、銭湯は歓迎され増殖していった。

そして、江戸の銭湯の多くが「入り込み湯」――つまり男女混浴だった。日本人が裸体を見せることを恥じらうようになったのはわりと最近のことで、かつてはあまり気にせず裸を露出していたのだ。銭湯に入った後、全裸のまま通りを歩いて家に帰る者も多かったという。服を着るのが面倒くさかったのだろう。

入り込み湯/山東京伝『艶本枕言葉』より

「猿猴(えんこう)に あきれて娘 湯を上がり」という川柳がある。つまり、男の手がテナガザルのように伸びてきて娘の裸身を触りまくり、娘はあきれて湯から出ていくという意味だ。幕府は躍起になって混浴禁止令を連発したが、あまり守られなかった。

だから、幕末に開国を迫るために来日したペリー総督は、こう驚愕している。

「裸体をも頓着せずに男女混浴をしている或る公衆浴場の光景は、住民の道徳に関して、大に好意ある見解を抱き得るような印象をアメリカ人に与えたとは思われなかった。……(中略)……日本の下層民は、大抵の東洋諸国民よりも道義が優れているにも拘らず、疑いもなく淫蕩な人民なのである」(『ペルリ総督 日本遠征記』土屋喬雄、玉城肇訳 岩波文庫)

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