tanukinohirune https://chez-nous.typepad.jp/tanukinohirune/ ja-JP daily 2 2025-03-16T15:18:18+09:00 石に話すことを教える https://chez-nous.typepad.jp/tanukinohirune/2025/03/teaching-a-stone-to-talk.html ずいぶん間が空いた。思い出したようにブログを書く。昨晩話した内容を記録しておく。上賀茂で3月15日か... <p><span style="font-size: 12pt;">ずいぶん間が空いた。思い出したようにブログを書く。昨晩話した内容を記録しておく。上賀茂で3月15日から始まった<a href="https://artsensibilisation.com/teaching_a_stone_to_talk/" rel="noopener" target="_blank" title="美術展「石に話すことを教える」">美術展「石に話すことを教える」</a>のオープニングでこの展覧会のコンセプトに関わる短い話をした。</span></p> <p><span style="font-size: 12pt;">そもそも「石」とは何か。それは「鉱物」あるいは「岩石」である。鉱物とは、マグマの活動、岩盤の移動・変形、風化、堆積などの地質作用によって作られた自然界の固体、というような定義らしい。そして岩石とは、鉱物の粒子が凝固したものだということである。地学ではそう説明するらしい。「石」はそれらを包括する曖昧な言葉ではあるけれども、同時に私たちが日常的に目にしたり拾い上げたりできるものを指す身近な言葉でもある。</span></p> <p><span style="font-size: 12pt;">石は土の上に、あるいは土の中にある。それでは「土」とはそもそも何だろう? 土とは、細かな石(砂)と有機物(動植物の死骸や糞、バクテリア)が混ざったものだと言えるだろう。ダーウィンは、ミミズの糞が土壌を作るという研究 (<em>The Formation of Vegetable Mould through the Action of Worms, with Observations of their Habits</em>, 1881.)を行った。土壌がなければ農業はできない(土壌なしの作物工場のようなものもあるけれど)。私たちが毎日野菜を食べられるのは、長い年月をかけて土壌を形成してくれた生き物の活動のおかげである。</span></p> <p><span style="font-size: 12pt;">土は生物活動によって造られるのだから、生物がいない地球に土はなかった。岩石、つまり石だけの世界である。宇宙全体を考えてみても、ほとんどは鉱物や岩石だけだと言える。もちろん私たちに馴染み深い姿で存在するとは限らず、溶岩だったり、超高温のガス状だったり、プラズマだったりする。けれどもそれらは生命活動に無関係という点では、「石」につながるものである。</span></p> <p><span style="font-size: 12pt;">それに対して「土」的なものは、宇宙のほんの限られた場所にしかない。地球にだって、地表付近の薄い膜のような層にしか存在しない。私たちはその上で生きているので、広大な大地が広がっているように感じるだけである。</span></p> <p><span style="font-size: 12pt;">世界を「石」と「土」とに分けてみると、世界のほとんどは「石」である。しかし私たちは「土」的な環境の中で生きている。私たち自身も「土」なのである。私たちはやがて死ぬし、土葬しても火葬してもいずれは土に帰るからである。私たちが身につける衣服や、住んでいる住居も、有機物であればやがて腐食し分解されて土になる。石も破砕したり溶解して姿を変えるかもしれないが、生き物よりはずっと長くその存在を保ち続ける。</span></p> <div draggable="false"><span style="font-size: 12pt;">古代の人々は石を尊重した。石は不死性を代表するからである。世界には石と不死性にまつわる神話がたくさんある。フレイザー(Sir James George Frazer, 1854-1941)『金枝篇』(<em>The Golden Bough</em>, first 1890)にも出てくる「バナナ型神話」というのは、いろんなバリエーションがあるが、ようするに神様がバナナと石とどちらかを人間に選ばせるという話である。愚かな人間はバナナを選ぶことによって、死すべき存在となる。</span> <p><span style="font-size: 12pt;">この類型は日本神話にもある。 『古事記』の天孫降臨において、高天原から高千穂に降り立った瓊瓊杵尊は、国津神である大山祇神の娘、木花咲耶姫に一目惚れする。父の大山祇神は、姉の石長比売と一緒に貰ってくれるなら差し上げましょうと言う。木花咲耶姫は名前からして想像できるような超絶美少女であるが、石長比売は醜い。それで瓊瓊杵尊は石長比売のみを返してしまうのだが、それに対して大山祇神は、石長比売は石のように永遠の命を代表する存在なのに、それを拒んだあなたは神といえども限りある命の存在となる、と告げるのである。</span></p> <p><span style="font-size: 12pt;">物語的な想像力の中では、石は一見不動性、不活性な存在のように見える反面、その内部に何かとてつもないエネルギーが封印されている、というふうにも語られてきた。<span class="s1">『水滸伝』では、</span>百八の魔星を封印した「遇洪而開(こうにあいてひらく)」と記された石碑を取り除くと、閃光と共に三十六の天罡星と七十二の地煞星が天空へと飛び去る。<span class="s1">『西遊記』では、</span>花果山の頂にある仙石が割れて石の卵が生まれ、そこから一匹の石猿、つまり孫悟空が孵る。また<span class="s1">『紅楼夢』は、</span>女媧が天を修繕した際に1つ余った石が人間界に降り、主人公の賈宝玉となることから『石頭記』と題された。</span></p> <p><span style="font-size: 12pt;">スタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』に出てくる謎の物体「モノリス」は、エネルギーというよりは何か宇宙的知性のようなものを封印していて、それに触れることで私たちの祖先の猿人たちが知性を持つ存在へと変化した。これは石といっても石板のような形で、旧約聖書におけるモーセの十戒の石板を連想させる。だがより広く解釈するなら、モノリスとは「一個の石」であって、日本なら神社の本殿の背後などにある特別な石、神が依代とする磐座もそうである。</span></p> <p><span style="font-size: 12pt;">YouTubeのチャンネル(@hirutanu)の「資本主義の美学」で取り上げたこともあるヤップ島の石の貨幣「フェイ」も、その合理的な側面においては、貨幣の本質とは負債の記録であるという信用貨幣論にインスピレーションを与えたものではあるが、もちろんそれが石であることは、そこに神的な力が憑依するという考え方にもつながっている。</span></p> <p><span style="font-size: 12pt;">亡くなった室井尚さんから聞いた話だけれど、彼は昔、核燃料の廃棄物に関する通産省のシンクタンクのようなところに呼ばれたそうである。いろんな分野の人が集まって、廃棄した放射線物質の危険性がなくなるまで、その場所は危険だから近づくなというメッセージを何万年も先の子孫に伝えるにはどうしたらいいか、というSFのような(しかし切実な)問題について議論したのだそうである。</span></p> <p><span style="font-size: 12pt;">「ここは危険だ」というメッセージをどんな言語(あるいは記号)で記すべきかという困難とともに、それを何に記すかという困難もあった。デジタルなんて問題にならない。たとえ10万年保つメディアに記録したとしても、10万年後の子孫がそれを読めるとは限らない(技術文明が進歩する、それどころか現状維持する保証すらないから)。紙や木はもちろんダメだし、金属だって腐食する。結局のところ、巨大な石に彫るしかないという結論になった。なんだ、それなら古代文明と一緒じゃないか、私たちの誇る高度な科学技術とは、何万年という時間の前には何て無力なんだろう。しかもその何万年すら、地球や宇宙の年齢から見たらほんの一瞬のような時間なのだ。</span></p> <p><span style="font-size: 12pt;">私たち(「土」的存在)の生きるスケールを遥かに超える広大な時空に「石」は繋がっている。現代人の多くは、石に神的な力を感じた古代人をバカにしているかもしれないが、石に崇高なものを感じるのは人間精神の基本であり、人類史におけるほんの一瞬のエビソードに過ぎないであろう「文明の進歩」などという幻によっては、ビクともしない心の働きなのである。</span></p> </div> chez-nous 2025-03-16T15:18:18+09:00 人間とは何かとAIは問う https://chez-nous.typepad.jp/tanukinohirune/2024/04/ningentohananikatoaihatou.html 2024年6月1日、東洋大学で行われる藝術学関連学会連合のシンポジウムで発表する要旨です。http:... <p><strong><span style="font-size: 10pt; font-family: helvetica; color: #033d3d;">2024年6月1日、東洋大学で行われる藝術学関連学会連合のシンポジウムで発表する要旨です。<a href="http://geiren.org/news/2024/generative-ai.html">http://geiren.org/news/2024/generative-ai.html</a></span></strong></p> <p>&#0160;</p> <p><span style="font-size: 14pt;"><strong><span style="font-family: helvetica;">タイトル「人間とは何かとAIは問う」</span></strong></span></p> <p><span style="font-size: 12pt; font-family: helvetica;"> 生成系人工知能が生み出す文書やイメージを、熟練した人間が制作したそれらから、結果を見ただけで区別することはできるだろうか? 言い換えれば、機械による出力を知識や経験に基づく人間の手作業から決定的に見分ける「眼力」や「鑑識眼」といったものは、存在するのだろうか? もしそれが客観的なテストという意味なら、この問いに対する私の答えはノーである。</span></p> <p><span style="font-size: 12pt; font-family: helvetica;"> だがこのことは、人工知能が人類やその文明にとって深刻な危機だといったこととは、何の関係もない。AIがやがて人類に取って代わるという予言、あるいはそれが人類文明に深刻な脅威をもたらすことを懸念したり、その開発をしばらく中止すべきだといった主張が、人工知能開発に関わる人たちの中からも呟かれることがある。しかしそれは人工知能を過大に広告するためのプロモーションであり、哲学的には非現実的な妄想である。</span></p> <p><span style="font-size: 12pt; font-family: helvetica;"> ポイントは、そもそもなぜ機械と人間とを競合させなければならないのか? という問いである。なぜ機械と人間との間に、何らかの存在論的な区別を置かなければならないのか? 私たちは一体いつまで「人間にしかできず機械にはできないこと」を追い求める、果てしない競争へと追い立てられなければならないのか? これらの問いの方がよほど重要であると私は考える。</span></p> <p><span style="font-size: 12pt; font-family: helvetica;"> 人工知能はその本質においては、20世紀以降の特殊な問題などではない。「人工知能的なもの」はテクノロジーの本質にずっと潜んでいた課題であり、それはいわば人類文明の初めから、そもそも知的処理の機械化という手続きそれ自体の中に、ずっと存在していた要因なのである。それが現在、迅速で莫大なデータ処理、神経ネットワークモデル、深層学習の実現といった技術的達成を通じて、たまたま人工知能という形で私たちの前に現前しているといったことなのである。その意味では人工知能とは新しいトピックではない。AIは、人間とはそもそもどういう存在であるのかを、新たな形で私たちに問いかけているのだと思う。</span></p> <p><span style="font-size: 12pt; font-family: helvetica;"> AIを人間にとっての脅威として恐れることも、逆にAIなんて単に新たな道具としてうまく使えばいいのだと割り切るような態度も、ともに的外れだと私は考えている。人工知能は私たちにとって敵でも味方でもなく、それは人間とは何かという根源的な問いを先鋭化された形で私たちに突きつけている。この問いの姿を見極めることが重要なのである。</span></p> chez-nous 2024-04-30T09:17:30+09:00 うつしの美学 https://chez-nous.typepad.jp/tanukinohirune/2024/04/27-utsushi.html 【思文閣銀座「うつしの美学」で展示したテキスト】   「うつす」とは、たんに原作に似たものを作成する... <p><span style="font-size: 10pt; background-color: #ffffff; color: #0000ff;">【思文閣銀座「うつしの美学」で展示したテキスト】</span><br /><span style="font-size: 12pt;"> </span><br /><span style="font-size: 12pt;">「うつす」とは、たんに原作に似たものを作成する行為ではない。何かをうつそうとする時、私たちの注意はたしかに最初、形を模倣することへと向かう。けれども、いつまでもこの意識が強いままだと、手の動きは臆病で、ぎこちなくなる。うつすことへの執着が、うつすことを邪魔するのである。そこから脱するには、意識の拘束力を緩めることを学ばなければならない。直接的なコントロールを強めるのではなく、むしろ弱めることで、より高次のコントロールに到達する。原作を描いた手の運動の自在さへと、みずからのそれを沿わせてゆくような気持ち。それがうつすということではないだろうか。</span></p> <p><span style="font-size: 12pt;"> 機械的複製技術の普及とともに、「うつす」という行為に伴う感覚は、希薄になってきた。機械とはある意味で無邪気な存在であり、意識を持たず経験もしないので、その動きは臆病にも、ぎこちなくもならない。技術的な精度が向上するにしたがって、人間の手では到底なしえない正確な再現が可能になってゆく。そして現在の生成系人工知能は、出来上がった形を似せるばかりではなく、私たちの想像力のパターンすらも模倣し、あたかもオリジナルのような何か(たとえばレンブラントがかつて描かなかったレンブラント作品のようなもの)すら造り出すに至った。これは、AIによる「うつし」なのだろうか? それとも進化したコピーに過ぎないのだろうか?</span><br /><span style="font-size: 12pt;"> </span><br /><span style="font-size: 12pt;"> 現代人の多くは、何ごとによらず新規なものに強く反応する。他に似ていないもの、かつて無かったものに特別な価値を感じるように、条件づけられている。そうして「オリジナリティ」を称賛する反面、何かをうつしたものに対しては冷淡である。うつすことはたんなる反復でありコピーだと考える。だが、そもそもオリジナリティとは何か。それは、他に似ていないということではなく、「起源(オリジン)」となるという意味である。オリジナリティとはむしろうつされることを内包し、うつしを誘発する力のことだ。オリジナルの反対はコピーである。けれどもうつしはコピーではない。うつしはオリジナルに対立していない。</span><br /><span style="font-size: 12pt;">  </span><br /><span style="font-size: 12pt;"> ヨーロッパにおいては十九世紀まで、芸術活動の本質とは自然の模倣(ミメーシス)であるというのが普通の考え方であった。日本でも近代以前においては「描く」ことと「うつす」こととはほぼ同義であった。だが一九世紀から二十世紀に入ると、過去を払拭して何かを新しく作り出すことに、過剰な価値が置かれるようになってしまった。言い換えれば、創造と模倣との関係をオリジナルとコピーとの関係に重ね合わせ、あたかも互いに対立するものであるかのように考え始めたのである。こうした芸術観においては、創造と模倣との本当の関係は理解できなくなる。原作とうつしとが、ともに実時間を生きながら互いを反映し合う様相が、見えなくなってしまうからである。</span><br /><span style="font-size: 12pt;">   </span><br /><span style="font-size: 12pt;"> 個性を重んじるべきだということには、誰も反対しない。けれども個性とはそもそも何だろうか? 「個性の表現」とは? それは各自が思い描いた夢をそのまま表に出すことではない。個性とははじめから自分の中に存在している特徴、「ありのままの私」といったものではないのである。なぜなら私的な空想や思考なんて、実はどれも似たり寄ったりだからだ。個性とはむしろ、ありのままの自分を捨てて、何か他のものになろうとする時、そのプロセスの中から否応なく滲み出てくる何かである。成長するとは、何か他のものになろうとすることだ。うつしとはそうしたプロセスの呼び名なのである。</span><br /><span style="font-size: 12pt;"> </span><br /><span style="font-size: 12pt;"> インターネット環境の中で、「ミーム」という言葉が再び広く知られるようになった。もともとはイギリスの動物学者リチャード・ドーキンスが『利己的な遺伝子』(一九七六年)で導入した概念であり、遺伝子(ジーン)と同じように、人間の思考や行動のパターンが伝達される情報単位を意味し、「文化的遺伝子」とも呼ばれた。メロディー、キャッチフレーズ、ファッション、料理のレシピから、大きくは思想や芸術、宗教までをも含む。ミームは遺伝子がモデルで、脳から脳へとコピーされると言われたが、実際には文化や行動のパターンが伝達されるプロセスは、コピーではなくむしろ「うつし」に近い。私たちは、自分が気に入ったものに同化したいと思う時、出来上がった姿だけを似せるのではなく、それが生み出される原理を内面化しようとする。好きなメロディーを口ずさむ時、それを歌っている歌手の気持ちになろうとする。</span><br /><span style="font-size: 12pt;"> </span><br /><span style="font-size: 12pt;"> 過去の時代におけるうつしの作例を観ることは、尽きせぬ興味をそそると共に、転じて自分自身を顧みる経験でもある。先人たちは、私たちのようにオリジナルとコピーとの単純な対立にとらわれてはいなかった。したがって、私たちとは異なった仕方でうつしを理解していただろうと想像される。ある作品が真筆かどうかということに関しても、科学的方法でそれを決定しようとするクソ真面目な現代人からみると、ずいぶん無頓着だったようだ。私たちが進歩したということだろうか? それはとても疑わしい。私たちはただ、うつしとその背景に広がる世界観を忘れてしまっただけではないのか。</span><br /><span style="font-size: 12pt;"> </span><br /><span style="font-size: 12pt;"> 最も原型的な複製の方法は、鋳型や版によって同じものをたくさん作り出すことである。コピーという観点から見れば、それはデジタル情報技術における複製の先行形態であるかのように思えるかもしれない。しかし本当はそうではない。鋳型や版は物理的存在であり、複製によって少しずつ摩滅する。したがってそこから作られたものも正確に同じものではない。けれどもこれは物理的複製の限界ではなく、むしろ可能性である。摩滅することは、版も複製物もそれを制作する身体と同じく、実時間を生きていることを意味している。それに対してデジタル情報は、特定の時空間にある仕方で現れているだけであり、情報自体はこの世界の中に存在しない。このこともデジタルの限界ではなく可能性である。</span><br /><span style="font-size: 12pt;"> </span><br /><span style="font-size: 12pt;"> 唐紙のうつしは印刷ではない、と「唐長」十一代の千田堅吉さんは語る。印刷では圧力をかけてイメージを転写するが、そんなことをしていたら四百年前の江戸時代の版木が今も使えるわけがない。唐紙の制作において、絵の具は本当は和紙に移りたくはない、板木の上にずっと留まっていたいのだそうだ。だから力を入れて押さえつけたりすると、かえってうまく移ってくれない。手はむしろ最小限の力で紙の上から添えるだけにする。人間の介入をできるだけ減らして、あとはモノ同士が勝手に動いてゆくに任せる。うつしにおいて人間が習得すべきことは、いかにして力を入れるかではなく、いかにして力を抜くかということなのかもしれない。 </span><br /><span style="font-size: 12pt;"> </span><br /><span style="font-size: 12pt;"> OpenAIはこの三月末、どんな人の声でも合成できる人工知能「Voice Engine」を発表した。わずか十五秒の音声サンプルさえあれば、特定の人の声で任意のテキストを読み上げさせることができるシステムだ。これを利用すると何ができるだろうか? たとえばある人に、本人が絶対言わないようなことを言わせたり、また亡くなった誰かに、かつてその人が一度も歌わなかった歌をうたわせたりできるだろう。目覚ましい技術的達成であると同時に、不気味なことであり、恐ろしいことでもある。たとえば対立する政治家の声を使ってナンセンスなことや卑猥な内容を拡散させれば、スキャンダルをでっち上げるよりもはるかに安上がりで強力な攻撃手段となるだろう。</span><br /><span style="font-size: 12pt;">  </span><br /><span style="font-size: 12pt;"> 声を偽装できる技術は、現実的脅威としてばかりではなく、より深いレベルにおいても私たちを不安にさせる。なぜなら声とは、ある人がまさにその人であることを、内側から私たちに教える何かだだからである。声は真理を告げ知らせるものとして聞こえる。友人や家族そっくりに作られたアンドロイドを、本物の人間と見間違うことは(少なくとも現段階では)ありえないが、声だけならば、私たちは騙されるかもしれない。あるいは騙されていると知っていても、なおもその人が語っているという思いを拭い去ることができないのではないか。視覚的な似姿はもっぱら外から来るが、声は外から来ると同時に心の内部からも響くからである。</span><br /><span style="font-size: 12pt;"> </span><br /><span style="font-size: 12pt;"> 音声サンプルに基づいて合成されたコピーに対して、純粋に機械的に合成された人声を、私たちはどのように経験するだろうか? それはたんにオリジナルに似ているというようなものではないし、また本物と聞き間違うというようなものでもない。その声は、オリジナル/コピーという対立の枠組とは、まったく別な領域で響いている。そうした声を生成させる試みには、どこか美術におけるうつしに通じるものがあると感じられる。</span><br /><span style="font-size: 12pt;"> </span><br /><span style="font-size: 12pt;"> 美学とはかならずしも、何が美しいかについての判断基準を持つこと(美意識)ではない。感性に訴える経験を、感性に訴えるがままに捉えようとする思考の試みである。その意味では、私たちが生きているこの時代は美学を忘却した時代とも言える。多くの人は日々更新される膨大な情報の流れに圧倒されて、どんな事柄に関しても、知識や立場に基づく判断ばかりが先行して、感性的な経験に言葉を与える余裕を失っている。芸術、アートに関わる言説ですら、新しさやインパクト、マーケット的な価値といった「情報」だけで構成されている。そんな中で「うつし」に注目することで、忙しない日常を少しスローダウンさせ、多少とも異なったやり方で現実に目を向けることができるのではないか。</span><br /><span style="font-size: 12pt;"> そうした思いからこの展示を企画してみた。</span></p> chez-nous 2024-04-27T23:08:21+09:00 屋上の思想(1998) https://chez-nous.typepad.jp/tanukinohirune/2024/04/%E5%B1%8B%E4%B8%8A%E3%81%AE%E6%80%9D%E6%83%B31998.html 屋上の思想  昔聞いたRCサクセションの有名な曲のひとつに、「トランジスタラジオ」というのがあります... <p><strong><span style="font-size: 14pt; font-family: helvetica;">屋上の思想</span></strong></p> <p><span style="font-size: 12pt; font-family: helvetica;"> 昔聞いたRCサクセションの有名な曲のひとつに、「トランジスタラジオ」というのがあります。この歌は、ぼくの想像で再現すると、だいたいこんな状況を歌ったものです。70年代半ばの、ロックファンの高校生の男の子がひとり、授業を抜け出して屋上の「日の当たる場所」で寝ころんでいる。かれはそこでタバコを吸い、「内ポケットにいつも」忍ばせているトランジスタラジオを聴くのです。そうしながら「彼女」が教室でおとなしく勉強している姿を思いうかべる。ラジオは「きみの知らないメロディ、聴いたことのないヒット曲」を運んでくる。</span></p> <p><span style="font-size: 12pt; font-family: helvetica;"> さてこの情景では、まず何よりも「屋上」という場所の魅力が圧倒的です。いったい「屋上」って何だったんだろうか。「屋上」は、ラジオ体操やバレーボールをしたり、秘密のデートや取り引きをしたりするだけの場所ではなかった。また失恋を癒したり、友達を慰めたり、喧嘩をしたり、犯人を追いつめたり、飛びおり自殺を企てたりするためだけにあるのでもなかった。いや、むしろそうしたことすべてを可能にするような空間の独特な質が、そこにはあったのです。</span></p> <p><span style="font-size: 12pt; font-family: helvetica;"> 「屋上」とはひとつの「空き地」です。そしてこの「空き地」は、地表が宇宙に向けて突出した岬のような場所です。それはいわば、天空に半ば突き刺さった大地であり、そこでは〈風〉と〈土〉という二つの異質なエレメントが解け合っている──「屋上」とはそうした境界領域です。トランジスタ・ラジオはそこで、何にも阻まれることなく「ベイエリアから、リバプールから」ヒット曲をキャッチしてくる。授業を抜け出してこの「屋上」という空間に入る少年は、大気圏に広がるラジオ電波のネットワークに触れることになるわけです。</span></p> <p><span style="font-size: 12pt; font-family: helvetica;"> これを現代に置き換えて考えてみると、どうでしょう。トランジスタラジオはパソコン、ラジオ放送網はインターネットということになるでしょう。もちろん、ラジオがコンピュータになることによって、もはや後戻りできない決定的な変化が生まれました。それは、情報の双方向性(インタラクティヴィティ)です。そのことによって、本当の意味でのネットワーク、つまりどこにも中心のないウェッブが生まれました。世界は、どこもかしこも「つながれた(ワイヤード)」情報空間となった。では、あの「屋上」はどこに行ったのでしょうか?</span></p> <p><span style="font-size: 12pt; font-family: helvetica;"> それは、いまやどこにでもあるのです。パソコンとインターネットによって作り上げられたコミュニケーション空間においては、自宅の机の前も、オフィスも、通信端末をもって歩く街も、いわばあらゆる場所が「屋上」のような境界性をもちます。「屋上」は遍在する。どんな場所も宇宙へと突き出した突堤となり、そこでは〈風〉─たえざる運動・軽さのエレメント─と〈土〉─重く停滞する実体性─とが溶け合っている。あらゆる空間がそうした二重性をもつようになった……これは、すごいことです。人間をとりまく「意味の宇宙」の、根本的な構造が変化したのです。</span></p> <p><span style="font-size: 12pt; font-family: helvetica;"> 電脳ネットワーク化は、人類の文明史上の一大転換(というよりも、そもそもぼくたちが「文明」と呼んできたこの数千年の伝統そのものの転換)をもたらすことは確実です。これまでのような社会も、経済も、国家も、教育もこれからどんどん解体してゆくことでしょう。マスコミはそれを、まるで戦争のようにけたたましい鳴り物入りで、誇大なレトリックで騒ぎ立てています。たしかに大きな変化のときが来ているのはそのとおりなのですけどね……</span></p> <p><span style="font-size: 12pt; font-family: helvetica;"> でも、本当に重要な変化は、静かな足どりでやってくる、ということもある。サイバースペースがすべての場所をリンクさせる状況を考えるとき、それを「あらゆる場所が屋上になった」こととして考えてみることも必要なのです。「屋上」は「境界領域」ですが、同時にどこか、ポカンと抜けたような空間でもあるわけです。この「ポカンと抜けたような」という部分が、とても大事なんだ。うまく言えないけどね。そういえばキヨシロウも「あーあ、こんな気持ち、あーあ、うまく言えたことがない……」と歌っていた。電脳空間にひそむ、この可能性に気づくことができなければ、本当の21世紀はやってこないと思う。</span></p> <p>&#0160;</p> chez-nous 2024-04-27T22:42:48+09:00 「雑談」について https://chez-nous.typepad.jp/tanukinohirune/2024/04/27-zatsudan.html 2022年度リサーチプログラム報告書に寄稿したエッセイ 雑談からすべてが始まり、雑談が消えるとすべて... <p style="margin: 0px; font-style: normal; font-variant-caps: normal; font-stretch: normal; font-size: 12px; line-height: normal; font-family: Helvetica; font-size-adjust: none; font-kerning: auto; font-variant-alternates: normal; font-variant-ligatures: normal; font-variant-numeric: normal; font-variant-east-asian: normal; font-variant-position: normal; font-variant-emoji: normal; font-feature-settings: normal; font-optical-sizing: auto; font-variation-settings: normal;"><span style="font-size: 11pt;">2022年度リサーチプログラム報告書に寄稿したエッセイ</span></p> <p style="margin: 0px; font-style: normal; font-variant-caps: normal; font-stretch: normal; font-size: 12px; line-height: normal; font-family: Helvetica; font-size-adjust: none; font-kerning: auto; font-variant-alternates: normal; font-variant-ligatures: normal; font-variant-numeric: normal; font-variant-east-asian: normal; font-variant-position: normal; font-variant-emoji: normal; font-feature-settings: normal; font-optical-sizing: auto; font-variation-settings: normal;"><span style="font-size: 14pt;"><strong>雑談からすべてが始まり、雑談が消えるとすべてが消える</strong></span></p> <p style="margin: 0px; font-style: normal; font-variant-caps: normal; font-stretch: normal; font-size: 12px; line-height: normal; font-family: Helvetica; font-size-adjust: none; font-kerning: auto; font-variant-alternates: normal; font-variant-ligatures: normal; font-variant-numeric: normal; font-variant-east-asian: normal; font-variant-position: normal; font-variant-emoji: normal; font-feature-settings: normal; font-optical-sizing: auto; font-variation-settings: normal; min-height: 13.8px;">&#0160;</p> <p style="margin: 0px; font-style: normal; font-variant-caps: normal; font-stretch: normal; font-size: 12px; line-height: normal; font-family: Helvetica; font-size-adjust: none; font-kerning: auto; font-variant-alternates: normal; font-variant-ligatures: normal; font-variant-numeric: normal; font-variant-east-asian: normal; font-variant-position: normal; font-variant-emoji: normal; font-feature-settings: normal; font-optical-sizing: auto; font-variation-settings: normal;"><span style="font-size: 12pt;"> ロームシアター京都が推進するリサーチプログラムと聞くと、多くの人は劇場や舞台芸術作品という既存の対象についての研究を連想するかもしれない。だが最初の2017年から私がメンターの一人として見守ってきたこのリサーチプログラムに関していえば、その研究対象は狭い意味での劇場や舞台芸術に限られるものではなく、むしろ劇場や舞台芸術についての常識的な理解を拡張し、それによって私たちが生きるこの世界について考察するどれも優れた研究内容であった。それこそが本プログラムの魅力であり価値であって、また舞台芸術の専門家でもない私が6年間も関わってきた理由でもある。</span></p> <p style="margin: 0px; font-style: normal; font-variant-caps: normal; font-stretch: normal; font-size: 12px; line-height: normal; font-family: Helvetica; font-size-adjust: none; font-kerning: auto; font-variant-alternates: normal; font-variant-ligatures: normal; font-variant-numeric: normal; font-variant-east-asian: normal; font-variant-position: normal; font-variant-emoji: normal; font-feature-settings: normal; font-optical-sizing: auto; font-variation-settings: normal;"><span style="font-size: 12pt;"> 今回も多様なテーマのリサーチから自分自身も学びつつ一年を過ごすことができ、本当に楽しかった。荻島大河は「始原演劇」という壮大な概念を背景に、「犬飼」という文化から人形劇、さらにはVTuberのようなネット文化へと到達しようとしている。彦坂敏昭は子供の劇場体験という言語化しにくい内容を、《おえかきダイス》というユニークな仕掛けを用いて可視化しようと試みる。立花由美子は、美術的パフォーマンスと舞台芸術のそれとを統合的にアーカイブできる仕組みの構築という、ほとんど前人未到の目標に挑戦している。小倉千裕は、前売り券が安いという日本では誰もが当たり前と思っている現象への問いから出発して、チケットの価格をめぐる経済的・歴史的要因を探ろうとしている。 </span></p> <p style="margin: 0px; font-style: normal; font-variant-caps: normal; font-stretch: normal; font-size: 12px; line-height: normal; font-family: Helvetica; font-size-adjust: none; font-kerning: auto; font-variant-alternates: normal; font-variant-ligatures: normal; font-variant-numeric: normal; font-variant-east-asian: normal; font-variant-position: normal; font-variant-emoji: normal; font-feature-settings: normal; font-optical-sizing: auto; font-variation-settings: normal;"><span style="font-size: 12pt;"> 私は1990年から33年間大学で教えてきたが、このリサーチプログラムのミーティングに参加しながら時々、昔の大学の雰囲気を思い出すことがある。1990年代、あるいは遅くとも2010年頃までの大学のゼミの雰囲気である。それは一言でいうと、際限のない「雑談」が許されるような環境である。もちろん現実には時間に制限があるし、また最終的にはプレゼンテーションや報告、論文のような整った形に仕上げないといけないから、本当に雑談に際限がないわけではない。けれども知識の「整った形」に生命が通うためには、それを生み出すまでの大量の雑談的な議論、つまり自由な発想のやり取りの時間が必要なのである。たとえてみれば論文という一つの島は、それを取り巻く百千の雑談の海に囲まれてはじめて存在している──まあそんな感じかな。</span></p> <p style="margin: 0px; font-style: normal; font-variant-caps: normal; font-stretch: normal; font-size: 12px; line-height: normal; font-family: Helvetica; font-size-adjust: none; font-kerning: auto; font-variant-alternates: normal; font-variant-ligatures: normal; font-variant-numeric: normal; font-variant-east-asian: normal; font-variant-position: normal; font-variant-emoji: normal; font-feature-settings: normal; font-optical-sizing: auto; font-variation-settings: normal;"><span style="font-size: 12pt;"> 悲しいことだが大学は死につつある。建物や設備は立派になり、教育サービスを売るビジネスとしては成り立っているかもしれないが、新しい知識が産まれる場という大学の生命は消えかかっている。この惨状の原因は教職員の質が低下したからでもなければ、もちろん学生の意欲がなくなったからでもない。無駄なもの、役に立たない(と思われる)もの、一言でいえば「雑談的なもの」を切り捨てさせられてきたからである。教養教育を軽んじて専門教育を偏重し、市場原理や成果主義を導入し、数値化される評価ばかりに踊らさせ、ポリコレに隷属し、コンプライアンス違反というクレームに怯える、そんな方向に政治的に誘導されてきたからだ。それに追い打ちをかけるようにコロナ以来の過剰なオンライン化、挙げ句の果ては「稼げる大学」ときた。これでは大学に死ぬなという方が無理である。</span></p> <p style="margin: 0px; font-style: normal; font-variant-caps: normal; font-stretch: normal; font-size: 12px; line-height: normal; font-family: Helvetica; font-size-adjust: none; font-kerning: auto; font-variant-alternates: normal; font-variant-ligatures: normal; font-variant-numeric: normal; font-variant-east-asian: normal; font-variant-position: normal; font-variant-emoji: normal; font-feature-settings: normal; font-optical-sizing: auto; font-variation-settings: normal;"><span style="font-size: 12pt;"> 大学は死につつあるが、かつて大学が持っていた自由な知的交流を求める人々の気持ちは死んでいない。だからそれを可能にする雰囲気や場は、(全体としては死につつある)大学の中でも一部アジールような形で存続しているし、大学の外でもさまざまな形で実現が試みられている。多くの人々は、この世界には知的な雑談の場がもっと必要であり、テレビやネットだけではそれは不十分だと感じているのは確実なのである。決して研究費が潤沢なわけではないロームシアターのリサーチプログラムに毎年これほど優秀な人たちが応募してくるのも、限られた時間で多様な研究成果が生み出されてきたのも、そうした背景によるものだと私は理解している。</span></p> chez-nous 2024-04-27T22:33:26+09:00 コンプライアンスという呪文を解く https://chez-nous.typepad.jp/tanukinohirune/2023/12/24.html はじめて聞いた時からなんとも言えず嫌な感じのする言葉というものがある。最近では(というか随分前から広... <p><span style="font-family: helvetica; font-size: 12pt;">はじめて聞いた時からなんとも言えず嫌な感じのする言葉というものがある。最近では(というか随分前から広がってはいるが)「コンプライアンス」というのがそうだ。それ以前に「ポリティカル・コレクトネス」というのもそうだったが、「コンプライアンス」の方がタチが悪い。それは、多くの日本語話者にとってはじめて聞く英単語だからだ。</span></p> <p><span style="font-family: helvetica; font-size: 12pt;">「ポリティカル・コレクトネス」の方は、「ポリティカル」も「コレクト」も中学で習う英単語だからまだ馴染みがあるだろう。何となく意味が分かるような気がするし、「政治的適切さ」という訳語もある。近頃では「ポリコレ」と揶揄する言い方もでてきて、ちょっとは距離をとって対することができる。</span></p> <p><span style="font-size: 12pt;"><span style="font-family: helvetica;">それに対して「コンプライアンス」の方はほとんどの人は耳にしたことがない英単語だし、訳語もない。こういうのは気をつけなければいけない。意味のわからない英語は日本語の文脈の中では呪文のような働きをする。理屈ではなく魔術によって人を支配することを可能にする。だからそういう言葉を聴くと「あ、また何か邪悪なものが入ってきたな」と思う。これがこの言葉の与える</span><span style="font-family: helvetica;">「なんとも言えず嫌な感じ」の原因である。</span></span></p> <p><span style="font-family: helvetica; font-size: 12pt;">意味は調べれば分かるではないかと言われるかもしれない。コンプライアンスというのは、その時の社会規範を遵守するということである。たとえば最近、大企業や公的機関でお中元やお歳暮などの儀礼を廃止するというようなことがある。そうした贈答が取引や公的活動の公正性を損なうという理由からである。だが、この意味は本当はスジが通っていない。</span></p> <p><span style="font-family: helvetica; font-size: 12pt;">昔は、伝統的な贈答儀礼は社会的な関係を円滑にする行為だという共通認識があった。もちろんそれが公正性を損なう場合もあることは認識されていたが、贈答をどの程度許容するかは個々の現場判断に任されていた。贈答がもたらすこともある不公正というマイナスと、それを禁止することによる社会関係の円滑性の毀損というマイナスとの、どちらが大きいかは一律に判断できないからである。</span></p> <p><span style="font-family: helvetica; font-size: 12pt;">だが現在では、それは昔のことで、今はコンプライアンス意識が高まったから、贈答は一律に禁止した方が良いという社会規範が存在し、それを遵守しなければならないのだ、などと言われる。一見もっともらしいが、よく考えるとこれは同語反復である。「今は意識が高まった」というような客観的事実はもともとなく、「コンプライアンス」という呪文の元に贈答儀礼を一律に禁止したから、あたかも意識が高まり新しい社会規範が生まれたかのように見えるだけだからだ。つまり、コンプライアンスの「意味」なるものは、まったくスジが通っていないのである。<br /></span></p> <p><span style="font-family: helvetica; font-size: 12pt;">コンプライアンス(complience)という英語は「コンプライ(comply)」という動詞の名詞形であり、コンプライというのは、何かの要求とか必要性を「充足する」という意味である。語源的にはラテン語で「充す」ことを意味する「コンプレーレ(complere)」という動詞に由来し、別な英語の「コンプリート(complete)」も同じ語源を持つ。問題は充足すべき「何かの要求・必要性」が、本当に多くの人の同意する社会規範として成立しているのかどうか、という点である。</span></p> <p><span style="font-family: helvetica; font-size: 12pt;">贈答儀礼は大企業や公的機関では廃止される傾向にあるが、個人商店や中小企業では依然として行われている。人間同士の顔が見えるそうした実際的な場面では、贈答は不正につながる危険もあるが、全体としては相互利益の方が多いという健全な直観が共有されているからである。周知のごとく日本では大企業よりも中小企業の方が圧倒的に多い。2016年の調査では企業数で99.7%、従業員数でも68.8%である。つまり、贈答の禁止は現代の常識にはまったくなっていないのであり、コンプライすべき現代の社会規範なんて初めから存在しないのである。</span></p> <p><span style="font-family: helvetica; font-size: 12pt;">「コンプライアンス」のような呪文による支配は、人々がそれに納得することによってではなく、それに違反する者が孤立し、それが懲罰として機能することによって拡大する。つまりその権力は多くの人々が「納得はしないけど従わないと厄介だ」と感じることにによって支えられているのである。だからこの呪文を解くためには、簡単にいうと現場の私たちの多くが従わなければいいのである。呪文はその力を信じない人々には効かない。</span></p> <p><span style="font-size: 12pt;"><span style="font-family: helvetica;">だからそういう通達が上から来ても、ハイハイと聞くだけ聞いておいて、あとは適当に現場判断をすればいいのであるが、</span><span style="font-family: helvetica;">まあ実際にはそんな簡単には行かず、現場の末端の私たちも不安に煽られて疑心暗鬼になりがちだし、スパイがいたり裏切り者が出たりして面倒なのだけれども。少なくとも「コンプライアンス」という呪文の力に心の底まで支配されないように、しょうがない時には従うフリをしながらも心の中では「バーカ」と思っていることが大事なのではないかと思うのである。</span></span></p> <p>&#0160;</p> chez-nous 2023-12-24T14:32:29+09:00 異性装と戯れるアート https://chez-nous.typepad.jp/tanukinohirune/2023/08/17.html 8月5日の土曜日は同志社大学で美学会西部会の研究発表会があったので、行ってみることにした。 ようやく... <p><span style="font-size: 12pt;">8月5日の土曜日は同志社大学で美学会西部会の研究発表会があったので、</span><span style="font-size: 12pt;">行ってみることにした。</span></p> <p><span style="font-size: 12pt;">ようやくコロナ前のような対面の研究会が復活しつつある。ぼくは昨年の10月をもって6年間務めた美学会会長を退職し、委員会の構成員でもなくなってたんなる一会員となったので、気楽な立場で若い人の研究発表を聞いてみようと出かけてみたのだが、会場に入るなり、懇談会における質疑応答の司会を頼まれてしまった。懇談会の司会というのは、会場から質問が出ない時は何か言って時間を繋がなければならないお役目で、そのためには居眠せずに聴かなきゃいけないので、あんまり気楽でもない。だが実際には、発表内容は眠気を誘うようなものではなかったし、その後の質問も活発に出たので、心配することはなかったのだが。</span></p> <p><span style="font-size: medium;">発表者は今回一人だけで、内容はイギリス人の現代美術作家グレイソン・ペリーについて、特に彼の行う「異性装」の持つ意味に関する考察であった。ペリーは1960年生まれのアーティストで、作品としては陶芸やテキスタイルなどのテクニックを使うことに特徴があり、作品以外では現代アートについての奇矯な発言とか、公的な場における異性装といったパフォーマンス的な側面からも</span><span style="font-size: medium;">注目されてきた。「異性装」とはこの場合女装のことであるが、ペリーは自分自身がホモセクシュアルでもバイセクシュアルでもなくトランスジェンダーでもないことをみずから公言している。だからいわゆるLGBTQコミュニティ側の人ではない。ただ子供の頃から女装をしていたというから異性装者(トランスベスタイト)とは言えるかもしれない。だ</span><span style="font-size: medium;">が、ぼくが個人的に知っている異性装者とはかなり違っている。</span></p> <p><span style="font-size: medium;">ぼくが知っているのは近所に住む日本人で、中年男性であるが時々女子高生のような格好をして街を歩いている。大柄な男性だしもちろん誰も彼を本物の少女と見間違うことはないが、ちゃんと細かなところまで作り込んだ服装をしているので、つい見てしまうが、同時にジロジロ見るのはどうかとも思ったりする。軽い挨拶くらいしか言葉を交わしたことはないが、それは少女になっていない時で、その場合にはまったく普通の中年男性と思える。人から少女として見られないことは本人も分かっていると思うが、ではなぜそういう格好をするかというと、他人がではなく自分が見るため、いや「見る」というよりも、自分がそういう姿でこの世界に存在していることが、彼が生きるのに必要だからだろうと想像する。</span></p> <p><span style="font-size: medium;">それに対してグレイソン・ペリーの少女装には、そういう切実さがまったく感じられない。余裕たっぷりである意味「ふざけている」というか、彼の異性装は自分のためというより、それがもたらす効果に対して、あまりにも意識的であると感じる。大柄な初老の男が頬紅を塗ってファンシーな花柄のワンピースを着ることは、『空飛ぶモンティ・パイソン』的なナンセンスを好むイギリス人にはある意味受け入れやすいし、そうした状況を知りつつ、現代社会においてLGBTQ(+何とかかんとか)が、政治的に利用されて物議を醸している状況と、自分なりの仕方で戯れている、というような印象を受ける。</span></p> <p><span style="font-size: medium;">さて研究発表は面白く聴いたのだが、アーティストのこうした振る舞いが、現代美術と工芸とのヒエラルキーとか、そこに重なっている性差のイデオロギーとか、その他既存の近代的文化秩序に対する撹乱的な効果を持つとか持たないとかいう議論に関しては、ぼくはあまり共感</span><span style="font-size: medium;">できなかった。グレイソン・ペリーはたぶんそんなことはまったく考えておらず、そこまで考えていないことがむしろ彼の強さなのではないかと思ったからである。彼の異性装は、LGBTQ(+何とかかんとか)が政治的に力を持っている現在の世界に対する、かなりの揶揄を含んだ反応であるように感じる。</span></p> <p><span style="font-size: medium;">かつては、サブカルチャーが自己主張をすること自体が、支配的な文化秩序に対する撹乱的な意味を持ち、政治的抵抗となりうる場合もあった。ぼくの世代以前の多くのリベラルな人々には、そうした経験が強く刻印されているために、現代の「逸脱的」文化について考える時に、つい勘違いしてしまう。年長者だけではなく、現代の若い世代の研究者たちも、マジメに勉強しているために古い時代の価値観につい影響を受けてしまい、マジメに「研究」的態度を取ろうとすると、たとえば異性装のようなプラクティスそれ自体に、何か支配的文化秩序を撹乱させる潜在力を読み取るべきかのように誤解してしまうのかもしれない。だが、そうではないのである。</span></p> <p><span style="font-size: medium;">サブカルチャー一般がグローバルな文化産業に取り込まれて商品化されているのと同じ程度に、権力はLGBTQのような、かつてはそれ自体が逸脱的であったグループの社会的位置を利用して、支配を拡大しようとしている。それが現在の状況である。アイデンティティは政治利用されている。「アイデンティティ」は、それを認められてこなかった人々にとっては、自らの存在価値を回復する重要なきっかけだが、同時に、弱者であることが支配権力に利用されるという、両刃の剣である。人権は尊重されねばならないが、人権尊重という名の下に、選挙における黒人票を獲得するために黒人の権利が叫ばれ、女性票を獲得するために女性の社会進出が謳われてきたという側面も、確実にあるのであり、性的マイノリティの政治化もその延長線上にある。</span></p> <p><span style="font-size: medium;">こうした現代的な文化の権力化が用いる基本的な戦略の強みは、マイノリティの人々は(自分たちが主張してきた)法的保護や補助金が与えられるためにそのことに反対しにくく、マイノリティ以外の人がそれを批判しようとすると「お前は弱者の権利を尊重しないのか!」と、(マイノリティではなく)権力者たちからワルモノ扱いされるという点である。そうやって支配される者同士の分断が促進され、文化の批判的なパワーは削がれてゆく。あんまりよくは知らないのだがグレイソン・ペリーの「異性装」はそうした状況への批評的レスポンスではないかと想像する(必ずしもうまく行っているとは思わないが)。いずれにせよ、現代文化が置かれているこの状況を正確に記述し分析できる言葉を開発してゆくことが、必要なのではないだろうか。</span></p> chez-nous 2023-08-21T12:09:34+09:00 人工知能の美学 https://chez-nous.typepad.jp/tanukinohirune/2023/08/01.html 10月の美学会全国大会の研究発表に向けて、関連する記事を「人工知能の美学」というタイトルでまとめてお... <p><span style="font-size: 12pt; font-family: helvetica;">10月の美学会全国大会の研究発表に向けて、関連する記事を「人工知能の美学」というタイトルでまとめておこうかな、と思う。今後、考えたことをこのブログにメモするという形で、それを最終的には学会発表としてまとめてみようという計画。それに合わせて関連記事をナンバリングしてみようかな。</span></p> <p><span style="font-family: helvetica; font-size: 11pt;">さて、ChatGPTはその後もいろんな場所で話題になっていて、面白い。前期の講義のレポートで、ある学生がいかにもChatGPTが出力しそうな作文を提出してきたが、それはあまりにも典型的にChatGPTらしすぎて不自然だったので、これは人間が人工知能を装って書いたのではないかと思い、本人に確認したらやっぱりそうだった。人工知能を真似して書いただろう、と言ったら悔しそうで、今度は先生も見抜けないくらい人工知能の文章を模倣してみせる、と。</span></p> <p><span style="font-family: helvetica; font-size: 11pt;">やっぱりすごいな、人間は。何も心配することないじゃないか。</span></p> <p><span style="font-family: helvetica; font-size: 11pt;">人工知能は、いかにも人工知能っぽい作文をわざと作成するということはできるのだろうか。今度聞いてみたい。</span></p> <p><span style="font-family: helvetica; font-size: 11pt;">そんなことを考えてたら、イスラエルの有名な歴史学者のハラリという人が書いた、人工知能の脅威を訴える記事が目に入ったので読んでみた。つまらん。基本的には、人間の知性を能力とかパフォーマンスという観点からしか見ていなくて、まったく共感できない。</span></p> <p><span style="font-family: helvetica; font-size: 11pt;">このハラリという人は、世界的に超有名で信じられないほど本が売れているそうだけど、正直言って全然信頼できない。こんな凡庸な歴史観の、何がそんなに重要なのか。なんというか、こういうのは現代世界中の多くの人が聴きたがっている話というか、そしてあまり勉強しなくても誰にも分かりやすい話として最適化して語ってるというか、そういう意味では非常に優れているけどね。しかし、本人には失礼だけど、こういうのが人工知能的な思考なのではないかな。</span></p> <p><span style="font-family: helvetica; font-size: 12pt;"><span style="font-family: helvetica; font-size: medium;">気分転換にYouTubeを見てたら、ピノキオピー「匿名M」というのがあるので聴いてみた。あんまりよく出来てるので5回くらい再生してしまった。</span></span></p> <p><span style="font-family: helvetica; font-size: 11pt;"><span style="font-family: helvetica; font-size: medium;"><a href="https://youtube.com/watch?v=yiqEEL7ac6M&amp;feature=shareb">https://youtube.com/watch?v=yiqEEL7ac6M&amp;feature=shareb</a></span></span></p> <p><span style="font-family: helvetica; font-size: 12pt;">数千万回とか、尋常じゃない回数再生されている。</span></p> <p><span style="font-size: 12pt;"><span style="font-family: helvetica;">これは初音ミクが「匿名M」として、人類文明の終末みたいな風景をバックにインタビューを受ける、みたいな状況なんだけど、ミクの答えが秀逸。まあ、ボーカロイドは別に人工知能ではないけど人工物だから、この作品中では人工知能的な役割で答えていると思っていい。人間をどう思いますか? と訊かれて「存在しててウケます」と(笑)。存在してない側から見ると「ギャグみたいです」というのに爆笑してしまった。私なんてもう終わると言うけど「人間も、終わりますからね」。そして最後に「全部言わされてるだけですけどね」とクールなことを言う。</span></span></p> <p><span style="font-family: helvetica; font-size: medium;">ハラリは、これを見たほうがいいね。</span></p> <p><span style="font-family: helvetica; font-size: medium;">人工知能について考えようと思って外国の最新情報をいろいろ眺めてはいるのだけど、本質的な問題に関しては何ひとつ参考にならないな。どうでもいい情報はいくらでも見つかるのだけど。ぼくが分かってないだけだとしたら、誰か教えて欲しい。</span></p> <p>&#0160;</p> <p>&#0160;</p> chez-nous 2023-08-01T23:21:46+09:00 「適切性」が暴走する https://chez-nous.typepad.jp/tanukinohirune/2023/07/12.html これは前回の「美学は人工知能をどう語るのか」の続きというか、本当はこちらの方が書きたかったのだけれど... <p><span style="font-size: 12pt;">これは前回の「美学は人工知能をどう語るのか」の続きというか、本当はこちらの方が書きたかったのだけれど、昨晩は時間がなくて展開できなかった。前回の記事だけだと一学会に関する事柄のように読まれるかもしれないが、そんなことでは全くなく、学会や人文系の研究環境に限られた問題ですらなく、議論したいのは私たちが今生きている社会全体に関わる問いである。それはまた、もっと前の記事で取り上げた「人間が(性能の低い)人工知能として振る舞う」というトピックにも関わっており、美学会で発表を予定している内容の根幹となるものでもある。</span></p> <p><span style="font-size: medium;">学会発表とか論文の内容を公開のブログで記事を書きながら考えてゆくなんて、若い人たちはしない方がいいと思うが、ぼくはもう業績とか評価とか関係ないので、まったく構わない。自分の思考自体がパブリック・ドメインだと思っているのである。この意識は新しいようで古いものであり、近代の制度化された学問が広がる以前の思想家たちは、これに近い考え方であったと想像する。</span></p> <p><span style="font-size: medium;">けれども近代以前との決定的な違いは、ネットがあることである。ネットに自分の思考を書き記すということは、それが誰かに盗まれるかもしれないことを潜在的に意味している。少し前までは、それは他の人間に盗まれるかもしれない危険を意味していた。1990年代末、当時勤めていた大学の講義で学生が提出してきたレポートに、ぼくがネットに書いた作文がそのまま使われていた。最初はケンカを売られているのかと思ってその学生を呼び出したら、彼はそれがぼく自身の書いたテキストであることを知らず、ネットで探したら講義内容と似た文章を見つけたのでコピペしました、と白状した。</span></p> <p><span style="font-size: medium;">今から思うと、これはまだ可愛い部類の笑い話に属する出来事である。2023年の今、ネットに何かを書くということは、人に盗まれる危険を冒すことではない。人間よりも桁違いに情報収集力の高い人工知能に常に見られているということである。SNSのコメントであれブログの日記であれオンラインの論文であれ、とにかく何かを書くということは、意識するしないに関わらず、いわば人工知能に絶え間なくエサを与えて育てている、ということを意味している。人工知能は人間が吐き出した膨大な思考の断片を食べ、それを組み合わせて成長する。人工知能が人間を凌駕することを脅威と考える人がいるが、それは全く的外れであって、人工知能の脅威というのは、それが意識も感情も創造性も持たないゾンビであるのに、人間のそれと区別がつかない生成物を、無尽蔵に生成するという点にある。</span></p> <p><span style="font-size: medium;">さて、問題はなぜ「人間の仕事と区別がつかない」かということだ。それは、何であれ私たちがある仕事の質を、あらかじめ存在する基準を満たしているかどうかで判断するからである。言い換えれば「適切かどうか」という判断である。「政治的適切さ(ポリティカル・コレクトネス)」などはその典型だが、政治的でなくても「適切さ(コレクトネス)」はそれ自体が政治的な力を持っている。たとえば人事評価を数値化された「適切さ」の指標で実行すると、仕事上の失敗が少なく将来も失敗しなさそうな人が高得点を取る。その結果、単にエラーが少ないだけの人工知能的人格によって管理職や指導的ポジションが占められる結果となり、組織の全体としての生産性は低下してゆく。</span></p> <p><span style="font-size: medium;">審査も同様である。審査という制度自体は必要なものであるが、そこに過度の公正さや客観性を持ち込むと、それは人間(審査員)の人工知能化をもたらすことになる。個々人の能力の問題ではない。予め存在する基準に照らして適切性を評価せよと言われれば、真面目で責任感の強い人ほど、自分を抑えてみずから人工知能に変身して仕事せざるをえない。そうしないと、判断結果への「説明」を求められた時に対処できないからである。</span></p> <p><span style="font-size: medium;">「適切性」はもちろん「適切」なんだからそれ自体が悪いわけではないのだが、現代という時代はそれが一人歩きしていわば「暴走」していると思う。「適切性が暴走する」というのは、自己矛盾的で面白い表現だ。30年、40年前の社会環境と比べてみると、もちろん昔だって「適切性」が蔑ろにされていたわけではない。けれどもそれと同時に「何だかワケが分からないが面白そうなもの」に対する感受性もまた、ある程度共有されていた。関西の言葉で言うと「おもろい」人やモノが評価され、けっこう重要視されたりした。もちろん「おもろい」と思って採用したがクズだった、というリスクもあったが、だから客観的・数値的な基準に変更せよ、とはならなかった。いわば失敗に対する耐性があったということである。</span></p> <p><span style="font-size: medium;">客観的・数値的な適切性と、主観的・直感的判断、ある意味での「いい加減さ」とのどちらが正しいか、どちらに依拠すべきかという問題ではない。問題は両者のバランスである。今の世界は、このバランス感覚が破壊されている。それは「美学」が破壊されているということなのである。</span></p> chez-nous 2023-07-12T10:50:39+09:00 美学は人工知能をどう語るのか? https://chez-nous.typepad.jp/tanukinohirune/2023/07/11.html 6年間つとめた美学会の会長もようやく昨年10月にお役御免となり、今は気楽な一般会員となったので、最後... <p><span style="font-family: helvetica; font-size: 12pt;"><span style="font-size: medium;">6年間つとめた美学会の会長もようやく昨年10月にお役御免となり、今は気楽な一般会員となったので、最後に学会発表でもしておこうかなと思い、応募してみた。発表の応募が少なく困ってる、ということを聞いたこともあり。</span></span></p> <p><span style="font-family: helvetica; font-size: 12pt;"><span style="font-size: medium;">この機会に、今気になっている生成系人工知能の人文学的文化へのインパクトを、根本から哲学的に考察してみたいと思った。別に試すつもりはなかったが、ちょっと挑発的な書き振りで要旨を送ってみた。</span></span></p> <p><span style="font-family: helvetica; font-size: 12pt;"><span style="font-size: medium;">発表要旨はもちろん匿名で審査される。美学会は堅苦しい学会なので、審査で不採択になるかもしれないことは覚悟していた。事実、数年前に室井尚さんは委員会で応募を慫慂されたにもかかわらず、審査で落とされた。ぼくは一応採択されたので、まだマシなのかもしれない。</span></span></p> <p><span style="font-family: helvetica; font-size: 12pt;"><span style="font-size: medium;">送った要旨は以下のようなものである。すでに採択通知が来たので、別に公開してもいいだろう。して悪い理由はない。うまく行けば、10月15日に慶應大学で話すことになる。学会は14-15日だが14日は「哲学とアートのための12の対話」の日なので</span><span style="font-size: medium;">、もし14日に配置されると残念ながら行けないことになるが。</span></span></p> <p><span style="font-family: helvetica; font-size: 12pt; color: #0000ff;">機械の身体──美学は人工知能をどう語るのか</span><br /><br /><span style="font-family: helvetica; font-size: 12pt; color: #0000ff;"> 生成系人工知能は私たちの知的な活動、とりわけ創造的活動にとって根本的な危機をもたらす可能性があると、警鐘を鳴らす人々がいる。人工知能の開発者自身の中にそうした発言をする人がいるため、私たちのの多くは翻弄される。たしかに人工知能が学術研究や作品制作の現場において日々刻々、身近な問題と感じられていることは否定できない。例えば今審査に委ねられているこの発表要旨自体、ChatGPTによって出力されたものではないと、いったい誰が確信をもって断言できるだろうか?</span><br /><br /><span style="font-family: helvetica; font-size: 12pt; color: #0000ff;"> この発表に美学研究における何らかの意義があるとすれば、それは、テクノロジーが可能にする人工的な情報処理マシンを人類に対する「挑戦」や「危機」とみなすという思考様式の根底に、何世紀にも及ぶ、ある根深い形而上学的信念が存在することを示す、という点にあるだろう。この信念はサイエンス・フィクションの歴史において「フランケンシュタイン・コンプレックス」と呼ばれてきた心的機制と密接に関係している。このことを知るのはきわめて重要であり、美学が人工知能に関して何を語るにせよ、そうした認識を基にすべきであると私は考える。</span><br /><br /><span style="font-family: helvetica; font-size: 12pt; color: #0000ff;"> 人工知能の美学を思想史を参照しつつ議論するために、私はまずヒューバート・ドレイファスが1972年に発表した『コンピュータには何ができないか』を批判的に検討する。その時代に想定されていた人工知能は、たしかに現代私たちを取り巻くそれとはかけ離れたものだった。だから彼の議論自体がもはや時代遅れだと</span><span style="font-family: helvetica; font-size: 12pt; color: #0000ff;">考える人がいても無理はない。それに対して、ドレイファスの議論を現代の人工知能に合わせてアップデートすることが本発表の趣旨ではない。むしろ逆であって、人工知能が私たちに突きつけるアクチュアルな問題を、ドレイファスが依拠していたハイデガー、キルケゴールの思想へと遡行し、最終的にはカント『判断</span><span style="font-family: helvetica; font-size: 12pt; color: #0000ff;">力批判』第二部まで到達して、そこにおける目的論的判断力の議論の中で、現代的問題を再文脈化することを試みたい。</span><br /><br /><span style="font-family: helvetica; font-size: 12pt; color: #0000ff;"> 私たちが今生きている世界においては、人工知能に「何ができるか」ということだけがもっぱら前景化され、それまで機械には不可能とされていた何らかの知的・創造的作業が今や「できる」ようになった、といったことばかりがニュースになる。こうした状況の根底にも、機械と人間を競合するライバル同士のように</span><span style="font-family: helvetica; font-size: 12pt; color: #0000ff;">考える、ある奇妙な形而上学信念がある。マスメディアが好むこうした大騒ぎは、学術研究や文化政策にも影響を及ぼしているので、無視できない深刻な問題である。本発表の目論見は、こうした考え方自体が大いなる錯覚に基づくものであることを暴露することにある。</span></p> <p><span style="font-family: helvetica; font-size: 12pt;"><span style="font-size: medium;">これに対して、学会から採択通知と共に以下のようなコメントが来た。必ずしもこれに従って訂正せよというわけではない。これを応募者に見せるのは、参考にして改善せよというような趣旨なのかな。これも筆者は匿名だから、公開して悪い理由はないだろう。</span></span></p> <p><span style="color: #c00000;"><span style="font-family: helvetica; font-size: 12pt;">・一見タイムリーな問題ですが、なぜドレイファスなのかを含め、議論の中身が</span><span style="font-family: helvetica; font-size: 12pt;">薄い。</span></span></p> <p><span style="color: #c00000;"><span style="font-family: helvetica; font-size: 12pt;">・研究の背景や目的は示されているが、ドレイファスが提起した問題をどのよう</span><span style="font-family: helvetica; font-size: 12pt;">に再文脈化するのかが示されていないこと、「機械の身体」という表題と内容と</span><span style="font-family: helvetica; font-size: 12pt;">の関わりも示されていないことから、まとまりを持った研究発表になるのか懸念</span><span style="font-family: helvetica; font-size: 12pt;">される。</span></span></p> <p><span style="font-family: helvetica; font-size: 12pt; color: #c00000;">・アンディ・クラークなどがすでに指摘していることとの違いは?</span></p> <p><span style="font-family: helvetica; font-size: 12pt; color: #c00000;">・「形而上学信念」は「形而上学的信念」か。最後の「暴露する」は「明らかに</span><span style="font-family: helvetica; font-size: 12pt; color: #c00000;">する」等の表現が妥当ではないか。</span></p> <p><span style="font-family: helvetica; font-size: 12pt; color: #c00000;">・時宜を得たテーマで興味深い</span></p> <p><span style="color: #c00000;"><span style="font-family: helvetica; font-size: 12pt;">・個別の論点は示されていますが、全体を一貫する問題設定が不明確に思われま</span><span style="font-family: helvetica; font-size: 12pt;">す。</span></span></p> <p><span style="color: #c00000;"><span style="font-family: helvetica; font-size: 12pt;">・議論としては乱暴かなと感じましたが、社会的な関心の高い現代的な問題につ</span><span style="font-family: helvetica; font-size: 12pt;">いて議論する場をつくることも学会の役割だと思ます。</span></span></p> <p><span style="color: #c00000;"><span style="font-family: helvetica; font-size: 12pt;">・論考の目的や問いの所在が不明確で、通俗的な機械観・テクノロジー観に異論</span><span style="font-family: helvetica; font-size: 12pt;">を唱えようとしているように見受けられ、発表の学術的な意義よくわからない。</span></span></p> <p><span style="color: #c00000;"><span style="font-family: helvetica; font-size: 12pt;">・発表の趣旨は理解できるのですが、その内容を考えるならば、30分で収まらな</span><span style="font-family: helvetica; font-size: 12pt;">いように思います。むしろ単なるマニフェストのようなものに終わってしまう危</span><span style="font-family: helvetica; font-size: 12pt;">うさを持っているように感じられます。</span></span></p> <p><span style="color: #c00000;"><span style="font-family: helvetica; font-size: 12pt;">・要旨の大部分が、人工知能に対する人間の危機感は過剰反応であるということ</span><span style="font-family: helvetica; font-size: 12pt;">について書かれていて、本発表の趣旨である「人工知能が私たちに突きつけるア</span><span style="font-family: helvetica; font-size: 12pt;">クチュアルな問題を、ドレイファスが依拠していたハイデガー、キルケゴールの</span><span style="font-family: helvetica; font-size: 12pt;">思想へと遡行し、最終的にはカント『判断力批判』第二部まで到達して、そこに</span><span style="font-family: helvetica; font-size: 12pt;">おける目的論的判断力の議論の中で、現代的問題を再文脈化すること」について</span><span style="font-family: helvetica; font-size: 12pt;">はあまり説明されていないのでよくわからない。</span></span></p> <p><span style="font-family: helvetica; font-size: 12pt;"><span style="font-size: medium;">一読すると、こんな短い要旨に対してよくここまで言えるよな、お前誰や出てこい!(笑)みたいに思うのもあるけれど、別にこれを書いた個々の委員に対して文句が言いたいわけではない。</span></span><span style="font-family: helvetica; font-size: 12pt;"><span style="font-size: medium;">それよりもこれを読みながら、そもそも私たちはこんなことをして、いったい何をしていることになるのだろう? という絶望感を覚えたので、書いているだけである。</span></span></p> <p><span style="font-family: helvetica; font-size: medium;">文部科学省の大学設置専門委員会の委員というのを6年くらいやった。後半3年は委員長もやった。それで、ある美術大学の設置審査をしている時、主要メンバーの教員が海外のアワードを取って設置後の初年度、2ヶ月間集中で授業をしてあとは不在になる、という変更に対して認可を求める案件があった。</span></p> <p><span style="font-family: helvetica; font-size: medium;">その時、専門委員(多くは有名美大の学長クラスの方々である)の一人が、主要メンバーの教員が初年度から不在というのは、単位の実質化という観点からいかがなものかというような異議を唱えた。ぼくは正直驚いた。なぜかというとその先生は、前に喫煙所で雑談をしていた時、文科省が単位の実質化みたいな形式的なことで縛ってくるけど、そんなので美術教育なんてできないよ、と言っていた本人だからである。</span></p> <p><span style="font-family: helvetica; font-size: medium;">人は誰しも、匿名的な地位から意見が言えるというささやかな権力の場に置かれると、ついつい何かしら瑕疵を見つけて難癖をつけておきたくなるものらしい。あるいはまた、何か指摘しておかないと自分が仕事をした感じもしないという、ちょっと歪んだ責任感にも迫られるのかもしれない。</span></p> <p><span style="font-family: helvetica; font-size: medium;">そしてこうしたチェック機構を「公正で厳正な審査」だとして、必要なものと互いに認めざるを得ないという全体の状況がある。けれどもこんなことをしていては、<span style="font-family: helvetica; font-size: 12pt;"><span style="font-size: medium;">発表希望者がどんどん少なくなっていくのは当然だよな、とも思う。これは、室井さんのことについて書いたこの前の記事で述べた、「適切性が全てを支配する」という事態にも関係している。審査は「適切性」を基準としてしか行えないからである。</span></span></span></p> <p><span style="font-family: helvetica; font-size: medium;">しかし美学会の会長を6年間もやっておいて、今さら文句言うというのもアカンことだなあとも思う。そう思うなら在任時代に組織改革を提案すべきだった。が、こうした問題に共感者がいなかったという状況とか、会長が一人で騒いでも何も変わらんという思いとか、自分の忙しさとか弱さとか、コロナ状況とか、またこれは一学会の問題ではなく日本社会全体の趨勢であるとか、いろんなことで諦めていたことは事実である。</span></p> <p><span style="font-family: helvetica; font-size: medium;">もしも室井尚さんが美学会会長だったら、少しは違っていただろうという思いは拭えない。</span></p> <p><span style="font-family: helvetica; font-size: medium;">まあ言っても仕方ないので、そういう自分の反省も込めて、もし日程が許せば久しぶりに美学会で発表しますので、近づいてきたら詳しいこと告知します。</span></p> chez-nous 2023-07-11T21:26:10+09:00