永井氏の「倫理とは何か」のニーチェ理解に触れた時もそうだったけど、ちょっとキリスト教理解が粗雑ですね。まあ現代ではキリスト教と言ってもいろいろあるという問題もある。「プロテスタント神学の知識がある」という佐藤優氏は「宗教と道徳は関係ない」と断言しているし、私の好きなノースロップフライも「神学者がそういうことを言う時代だ」といっていた。私の属している教会もキリスト教ですが、いわゆる「道徳的」な戒めがうちの教会には沢山あり、プロテスタントなんてメジャーな所がそんなことを言っているとはちょっと信じがたいという気分です。私の属している教会ではその戒めを守れなかったとき「悔い改め」をすることが救いの条件となっているが、救いの条件はうちのキリスト教には何もない、何もしなくていい、という教会も存在するようで、そういう信者さんから直接話を聞いたことがあります。何が言いたいかというと、道徳的に厳しい戒めのたくさんあるうちの教会には「いや収入の十分の一を納めるってなかなか大変ですね」とか「タバコ(あるいは酒・ポルノなど)なかなかやめられないんだよね」とか「日曜日は安息日なんだけど、日曜日に店を閉めるのは経営的に厳しいな」とかいう話はごろごろしており、「自分の都合のいいルールを選んですがりついている」(永井氏の議論)ように見える人はほとんどいない、ということです。その道徳的な戒めの中には「同性との性行為の禁止」もある(同性に惹かれる気持ち自体は禁止ではない)のですが、それでもうちの教えに魅力を感じて兄弟になってくださる同性愛者のかたもおられるのです。そういう人たちの名誉のために言いたいが、決して彼らは「道徳で勝負すれば勝てると思って自分の都合のいいルールを選んだ弱者」ではないと思います。永井氏の話には「罪の自覚をすれば救われる」というキリスト教理解もでてくるが、まあ悔い改めるためには罪の自覚は必要ですが、しかしそれだけでは駄目で、行動をかえ、罪を捨てなければ意味がないのは当然で、これは今上で三つほど例をあげましたが、罪を捨てるのはなかなか大変なことです。「罪の自覚」がいつでも使える一つの技法という話は、それが内面だけで完結する教会、「行動としての悔い改め」をその神学の中に組み込んでいない教会にはあてはまるかもしれません(ちなみに新約聖書の福音書には「悔い改め」という言葉はあまりでてこない。私が数えた限りでは一度だけですが、我が教会の聖典では繰り返し強調されており、この辺りに神学上の差異の根拠があるようです)が、少なくともうちの教会にはまったくあてはまりません。貴族的価値法則と僧侶的価値法則という話もあって、「神に愛される=強い」と「神に愛される=弱い」という対照がなされているが、うちの教えに限らずもちろんすべての人が神に愛されているのであって、この価値法則も残念ながらお話にならない。「神に愛される」を「神に喜ばれる」に言い換えればすべての人が常に神様に喜ばれているわけではないが、強いこと、自分の才能を発揮することは間違いなく我が教会の神様には喜ばれることだし、道徳的によいことももちろん神様に喜ばれることでしょう。山上の垂訓の「心の貧しきものは幸いである」も、この人たちは心の貧しい人でこちらの人たちはそうでないというような分類概念ではなく、すべての人が自分の心の貧しさを実感する瞬間がある、というふうにとらえればよいのです。キリスト教批判なのにキリスト教理解が甘くてはいけないんではないですかね。
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これがニーチェだ (講談社現代新書) 新書 – 1998/5/20
永井 均
(著)
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ニーチェが問うた真に本質的な問題とは何か。哲学とは主張ではない。徹頭徹尾、問いである。〈神の死〉を語り、道徳を批判し、力への意志を説いた希代の哲学者の問いの構造を、見るも鮮やかに抉り出す快著。(講談社現代新書)
ニーチェが問うた真に本質的な問題とは何か。哲学とは主張ではない。徹頭徹尾、問いである。〈神の死〉を語り、道徳を批判し、力への意志を説いた希代の哲学者の問いの構造を、見るも鮮やかに抉り出す快著。
ニーチェが問うた真に本質的な問題とは何か。哲学とは主張ではない。徹頭徹尾、問いである。〈神の死〉を語り、道徳を批判し、力への意志を説いた希代の哲学者の問いの構造を、見るも鮮やかに抉り出す快著。
- ISBN-104061494015
- ISBN-13978-4061494015
- 出版社講談社
- 発売日1998/5/20
- 言語日本語
- 寸法11.4 x 1 x 17.4 cm
- 本の長さ222ページ
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商品の説明
著者について
1951年生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。同大学院文学研究科博士課程単位取得。現在、信州大学教授。専攻は哲学・倫理学。著書に『〈私〉の存在の比類なさ』――勁草書房、『翔太と猫のインサイトの夏休み』――ナカニシヤ出版、『〈子ども〉のための哲学』――講談社現代新書――など。
登録情報
- 出版社 : 講談社 (1998/5/20)
- 発売日 : 1998/5/20
- 言語 : 日本語
- 新書 : 222ページ
- ISBN-10 : 4061494015
- ISBN-13 : 978-4061494015
- 寸法 : 11.4 x 1 x 17.4 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 99,274位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 93位ドイツ・オーストリアの思想
- - 183位西洋哲学入門
- - 537位講談社現代新書
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著者について
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- 2022年8月2日に日本でレビュー済みAmazonで購入今世の中で起きている色々な事が、少し納得できました。人は思想によって生きているのですね。
- 2023年2月8日に日本でレビュー済みAmazonで購入いい意味で癖が強い。その癖こそが、「これがニーチェだ」の題名を意味する。万人に向けた、ニーチェではなく独自の展開がなされていて、読み応えがある。ニーチェに対する考えを深められる。
- 2022年2月8日に日本でレビュー済みAmazonで購入これぞタイトル買い。
ニーチェの本は読んだことがない。今まで読んだ本にたくさん引用があったけれど。100分de名著のようなものを読むのをやめて原典にあたろうと思っていたものの、これは積dle。
この本は著者の永井氏のニーチェ論であり、学術的な「正しい」ものを解説しているというよりは、ひとりの人間として感じたことが書かれている。
宗教的比較で仏教にも触れられているのだが、いわゆる正しい認識でないなと自分は感じたものの、永井氏の書かれるニーチェ像がかなり真宗チックで意図せずそうなっているならすごいなと思った。ニヒリズムからの絶対の肯定。うーむ。
「第一空間」、「第二空間」、「第三空間」というニーチェの思想の変遷、それぞれの段階で展開されたこと。ニーチェ自身の人生も合わさって、なんだか著者によってニーチェっていう変な人がいたんだぜっていうお話を聞いている感覚もある。
「永遠回帰」の解説。
”人生の価値は、何か有意義なことを行ったとか、人の役に立ったとか、そういうことにあるのではない。むしろ、起こったとおりのことが起こったことにある。他にたくさんの可能性があったはずなのに、まさにこれが私の人生だったのだ。そこには、何の意味も必然性もない。何の理由も根拠もない。その事実そのものが、そのまま意義であり、価値なのである。偶然であると同時に必然でもあるこの剥き出しの事実性のうちにこそ、神性が顕現している。そこにこそ〈神〉が存在する。その奇跡に感嘆し、その〈神〉を讃えて、ニーチェがなした祝福の祈りこそ「永遠回帰」の祈りなのである。”
意味のない人生こそがわれわれの悦びの根源…。絶望の壁を眺めていたらそれがそれでいいなと思えるみたいな感じかな。こういうのって詩的な人がきっと共感するものでないかな。芸術性の高い人とか。と勝手に思う。なんとなく二種深信。
この本ではおおよそのニーチェの思想がつかめるし、勢いのある著者のニーチェ論も楽しく読める。ただし専門的なものを求めている人には向かないのではないかと思う。
著者おすすめは『この人を見よ』(自伝)、『悦ばしき知識』、『反キリスト』。自分用メモ。
- 2022年4月10日に日本でレビュー済みAmazonで購入ニーチェ解説本の多くは表面的な解釈にとどまっているものが多く、「幸せになれる」だの「生きる勇気を貰える」だのいかにも売れそうな俗っぽい副題がついていたりもします。こういった風潮に「いや、素人目にもニーチェ思想はそんな甘っちょろいもんじゃないだろ……」と辟易していた所、「これがニーチェだ」という挑戦的なタイトルに惹かれて購入。
読んでみると、よくある解説書のように上から目線になったり神格化してしまったり世俗におもねったりする事なく、ニーチェと同じ地平に立って向き合っているような本でした。
都合のいい解釈におもねる事なく露悪的なまでの表現も恐れず、ニーチェを称賛する一方で、時にはこっぴどく批判しています。
コンセプト的に著者の主体的な感想が多めに構成されていますが、ニーチェ空間を3つに分けて空間同士の接続も論じられており、ニーチェ思想の流れを理解できるという点では解説書としてもすぐれていると思います。
特にウィトゲンシュタイン的観点から、「語ってはならない事を語ってしまっている」とニーチェ哲学に問題提起しつつも価値を認めていくのは本書ならではでしょう。
- 2022年4月13日に日本でレビュー済みAmazonで購入1994年、当時大学生だったわたしは、哲学概論という授業を受講したが、全く何を学んだのか覚えていない。多分、成績も悪かったと思う。
あれから30年近くが経ち、哲学の面白さがわかるようになり、ニーチェについて知りたいと思っていたところ、本書に出会った。大学時代、授業を受けた永井先生の著作だった。ニーチェの原書を読むだけでは見えない背景やニーチェの世界観を空間という言葉で構造化されており、理解が深まったように思う。
大学時代からの不思議な縁を感じた本だった。
- 2013年9月14日に日本でレビュー済みAmazonで購入永井氏の「これがニーチェだ」を読む。
これは永井氏の芸術作品である。
芸術作品であるというのは、必ずしも褒めているというわけではない。
彼自身が言うように、まさに「私の思うニーチェ」であり、
そうならばそれは、もはや学問たり得なく、芸術の範疇に属する。
そして究極的には、すべての学問は学問ではなく、芸術である。
ニーチェ自身の作品も、そう。キリスト教の教えもそう。
芸術作品を扱う、芸術作品を扱う、芸術作品である。
ニーチェはキリスト教を奴隷道徳とした。
そのニーチェに共感すれは、それはニーチェ教の奴隷である、と永井氏は言う。
そして、その永井氏に共感すれば、永井教の奴隷であろう。
神が死んだ今、全てを相対化するのは簡単である。
全てを相対化して、したり顔をするのは、あるいはもっとも知恵のないものの行為かもしれない。
しかし、オカルトでもなんでも、私達は、価値を見つけていかなければならない、そういう生き物だ。
そう割り切ってしまえば、いい。道具主義的な意見と思われるかもしれないが、そうではない。
本気で価値あると信じるのである。そして、そう信じれば、そのようになる。
ニーチェと永井氏に意見には、下記のような考えが内包されている。と思う。
「キリスト教が奴隷道徳でも信じる人がいて、それで幸せならそれでいいじゃん。
立派じゃん、キリスト教。
例え、ルサンチマンや力への意思からだとしても、ボランティアするのはいいことじゃん」
私はごく普通にそう考える。
遠くインドの地で、究極的に釈迦がたどり着いた境地は、こういったものであったように思う。