落胤
落胤(らくいん)とは、父親に認知されない庶子、私生児のこと。歴史上では高貴な人物の出自でそれが話題になることが多い。落とし胤(だね)[1]、落とし子とも。正式な血統の一族とはみなされないので、正当な系図には記載されていないことが多い。
このような子は一般民衆に混じって生活している。当時の実力者によって、正当な血統を継承する者とされて権力に利用されることがあるが、歴史の表舞台に出てくる人物の多くがそのような確証に乏しく、研究上疑問視されている例が多数みられる。
歴史上に登場した落胤といわれている人物
編集落胤説のある人物 | 人物概要 | 一般的に父親とされている人物 | 一説に父親とされる人物 | 備考 |
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秦河勝 | 古墳時代・飛鳥時代の官人 | 秦丹照または秦国勝 | 安閑天皇[2] | |
藤原不比等 | 飛鳥時代・奈良時代の公卿 | 藤原鎌足 | 天智天皇[3] | |
道鏡 | 奈良時代の僧 | 物部櫛麻呂 | 志貴皇子[4] | |
大江音人 | 平安時代初期の貴族・学者 | 大枝本主 | 阿保親王[5] | |
高階師尚 | 平安時代前期の貴族 | 高階茂範 | 在原業平[6] | |
空也 | 平安時代中期の僧 | 醍醐天皇[7] | ||
藤原頼成 | 平安時代の貴族 | 具平親王 | 具平親王と雑仕女の大顔との間の子で、大顔の死後に親王家の家司の藤原為頼の息子の伊祐(紫式部の従兄弟)の養子として育てられた。遍照寺に月見に出かけた際に大顔が頓死した出来事は『源氏物語』の光源氏と夕顔のエピソードのモデルと言われている。 | |
高階為行 | 平安時代の貴族 | 後冷泉天皇 | 後冷泉天皇と菅原増守女の子であり、天皇の乳母子の高階為家の養子として育つ。 | |
藤原有佐 | 平安時代の貴族 | 後三条天皇 | 後三条天皇と掌侍の平親子との間の子であり、禎子内親王の乳母子の藤原顕綱の養子として育つ。『今鏡』によると後三条天皇に似ていたという[8]。 | |
平清盛 | 平安時代末期の武将 | 平忠盛 | 白河法皇[9] | 『平家物語』では白河法皇と祇園女御の子とされているが、清盛存命時の公卿の日記などにはそのような描写は見られず、信憑性は疑問。 |
崇徳天皇 | 第75代天皇 | 鳥羽天皇 | 白河法皇[10] | 白河法皇と藤原璋子(待賢門院)の子であり、表向きは父親である鳥羽天皇からは「叔父子」と呼ばれていたという説がある。 |
八田知家 | 平安時代末期の武将 | 八田宗綱 | 源義朝 | 朝家と名乗った説があるが、真偽のほどは不明である。 |
島津忠久 | 島津氏の祖 | 惟宗忠康 | 源頼朝[11] | |
大友能直 | 大友氏の祖 | 近藤能成 | 源頼朝[12] | |
結城朝光 | 結城氏の祖 | 小山政光 | 源頼朝[13] | |
足利直冬 | 南北朝時代の武将 | 足利尊氏 | 尊氏に実子と認知されず、足利直義の養子となった。 | |
岩松満純 | 室町時代中期の武将 | 新田義宗[14] | ||
足利義尚 | 室町幕府第9代将軍 | 足利義政 | 後土御門天皇 | 応仁の乱当時、天皇は将軍御所へ避難するために同居しており、足利義政と不仲だった日野富子との関係が噂されたことによる。 |
一休宗純 | 室町時代後期の僧 | 後小松天皇[15] | 酬恩庵内にある墓所は宮内庁が後小松天皇落胤説に基づき陵墓(宗純王廟)として管理しているため、門内への一般の立ち入り・参拝は不可である。 | |
小田政治 | 室町時代後期の武将 | 足利政知 | 別名政氏と伝わる。 | |
浅井重政 | 浅井氏の祖 | 正親町三条公綱 | ||
細川藤孝 | 戦国時代の武将 | 三淵晴員 | 足利義晴[16] | |
二宮就辰 | 戦国時代の武将 | 二宮春久 | 毛利元就[17] | |
井上元勝 | 戦国時代の武将 | 井上就勝 | 毛利元就[18] | 元就の妾が井上就勝に嫁ぎ、程無く生まれたのが元勝であったとしている。 |
斎藤義龍 | 戦国時代の武将 | 斎藤道三 | 土岐頼芸[19] | 信憑性は乏しく、江戸時代以降の創作ともされる。当時においても義龍の父親は道三だと認めている書状(六角義賢が永禄3年(1560年)、家臣に宛てた書状『六角承禎条書』)が存在する。 |
大谷吉継 | 戦国時代の武将 | 大谷吉房 | 豊臣秀吉 | 秀吉と側室東殿との子とされる[20]。 |
東嶽 | 江戸時代前期の僧 | 北畠具教 | ||
淀殿 | 戦国時代の女性 | 浅井長政 | 織田信長[21] | |
豊臣秀頼 | 江戸時代前期の大名 | 豊臣秀吉 | 大野治長[22] | |
松花堂昭乗 | 江戸時代前期の僧 | 豊臣秀次 | ||
求厭 | 江戸時代前期の僧 | 豊臣秀頼 | 秀頼の第二子であると、本人が臨終の際に告白したとされる。 | |
天草四郎 | 江戸時代のキリシタン | 益田好次 | 豊臣秀頼[23] | |
鈴木一蔵 | 戦国時代の人物 | 徳川家康 | ||
永見貞愛 | 安土桃山時代から江戸時代の人物 | 徳川家康 | 結城秀康の双子の兄弟との説がある[24]。 | |
土井利勝 | 江戸時代の大名、老中・大老 | 水野信元 | 徳川家康[25] | |
松平康重 | 江戸時代の大名 | 松平康親 | 徳川家康[26] | |
井伊直孝 | 江戸時代の大名 | 井伊直政 | 徳川家康[27] | |
松平民部 | 江戸時代の武将 | 徳川家康[28] | ||
小笠原権之丞 | 江戸時代の武将 | 徳川家康[28] | ||
2代目後藤庄三郎(広世) | 江戸時代の御金改役 | 初代後藤庄三郎 | 徳川家康[29] | |
保科正之 | 江戸時代の大名、会津藩初代藩主 | 徳川秀忠 | 後に認知され松平姓を名乗ることを許された(実際に改めたのは3代目正容から)。 | |
柳沢吉里 | 江戸時代の大名 | 柳沢吉保 | 徳川綱吉[30] | |
天一坊改行 | 江戸時代の人物 | 徳川吉宗 | 吉宗の落胤であると称したが、吉宗の命によって獄門にされた。 | |
藤堂平助 | 幕末の新選組隊士 | 藤堂秉之丞 | 藤堂高猷[31] | |
松崎万長 | 明治の建築家 | 堤哲長 | 孝明天皇 | 遺詔により特に一家を立てて堂上に列した。 |
現代
編集脚注
編集- ^ 『大辞林 第三版』三省堂
- ^ 『本朝皇胤紹運録』
- ^ 『興福寺縁起』、『大鏡』、『公卿補任』、『尊卑分脈』
- ^ 『七大寺年表』『本朝皇胤紹運録』『僧綱補任』『公卿補任』
- ^ 『大日本史』氏族志、『本朝皇胤紹運録』
- ^ 『伊勢物語』
- ^ 寺史 - 六波羅蜜寺では「第二皇子」とされる
- ^ 『今鏡』137段
- ^ 『平家物語』
- ^ 『古事談』
- ^ 『島津国史』、『島津氏正統系図』
- ^ 『大友記』
- ^ 『朝光公記』
- ^ 『系図纂要』
- ^ 東坊城和長『和長卿記』明応3年8月1日(1494年8月31日)条
- ^ 『細川家記』
- ^ 『萩藩閥閲録』巻64「二宮太郎右衛門」
- ^ 『萩藩閥閲録』巻38「井上六郎右衛門」家譜
- ^ 『美濃国諸旧記』巻之2(p.33-64)
- ^ テレビ番組「決着!歴史ミステリー」にて採り上げられた([1])
- ^ テレビ番組「超歴史ミステリーロマン4 女たちの戦国」にて採り上げられた([2])
- ^ 『明良洪範』
- ^ 『耶蘇天誅記』
- ^ 『柳営婦女伝系』(『徳川諸家系譜』第1巻 続群書類従完成会)の長勝院(小督局)の項に結城秀康が双子であったと記されており、また、高野山にある小督局の墓には永見貞愛の名も刻まれている(秋元茂陽 『徳川将軍家墓碑総覧』星雲社、2008年)
- ^ 『徳川実紀』
- ^ 清水昇・川口素生『徳川一族 時代を創った華麗なる血族』(新紀元社、2008年)
- ^ 国宝・彦根城築城400年祭 列伝井伊家十四代 第6回 鬼を継ぐ夜叉~井伊直孝 其の壱~
- ^ a b 『幕府祚胤伝』(『徳川諸家系譜』第2巻、続群書類従完成会)
- ^ 『後藤庄三郎由緒書』
- ^ 『三王外記』
- ^ 永倉新八『同志連名記』等に「藤堂和泉守落胤」との記載あり
- ^ a b 「日本」の本質を「皇后」から読み解く関川夏央、講談社『群像』
- ^ 工藤美代子 『母宮貞明皇后とその時代』2007年 中央公論新社
- ^ 「『明治天皇の御落胤』が初めて明かす」玉川信明編『エロスを介して眺めた天皇は夢まぼろしの華である―御落胤と偽天皇』(社会評論社、1990年、42~55頁)
- ^ 『入江相政日記』第3巻、入江相政、朝日新聞社, 1990、p282