石橋政方
日本の官僚
石橋 政方(いしばし まさかた、天保11年(1840年)3月 - 大正5年(1916年)12月26日[1])は、幕末のオランダ通詞、明治維新後の外務省官吏。通称は助十郎、助次郎[1][2]。7代目石橋助左衛門の曾孫であり文学者石橋思案の父[1]。
人物、経歴
編集1840年(天保11年3月)、肥前国長崎で代々通詞を務める家系に生まれる。1848年に稽古通詞となり、1855年に小通詞末席に昇格した[1]。
助十郎は職務のかたわらで英語を修めていく。 1858年9月10日には、米国軍艦ポーハタン号がこの年長崎へ3度目の寄港をした際、長崎奉行がポーハタンのジョサイア・タットノール提督に、幕府の公式通詞たちへの英語教授を要請。タットノールはポーハタン付きの牧師であるヘンリー・ウッドに教師に指名し、助十郎は9名いた生徒の一人として英学を学んだ[3]。
翌1859年5月に米国聖公会の宣教師ジョン・リギンズが来日すると、リギンズが教える立教大学の源流となる私塾で英学を学んだ[4]。同年、神奈川詰となり、外交交渉で活躍した[1]。
1862年(文久2年)から横浜英学所でアメリカ・オランダ改革派教会の宣教師サミュエル・ロビンス・ブラウンとともに日本人に英語を教える[1][4]。前年1861年には英日対訳語彙集である「英語箋」を編集、出版した[4][2]。
1864年には御勘定格通弁御用頭取に任じられる。
1868年以降、明治新政府に出仕し、外国官一等訳官、外務大訳官、同権少丞、同大書記官等歴任[1]。
1893年に官を辞す。
栄典・授章・授賞
編集- 1888年(明治21年)5月29日 - 勲四等旭日小綬章[5]
- 1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[6]
- 1916年(大正5年)12月26日 - 従四位・勲三等瑞宝章[7]
- 外国勲章佩用允許
著書
編集- 英語箋
脚注
編集- ^ a b c d e f g デジタル版 日本人名大辞典+Plus
- ^ a b 京都外国語大学・図書館 石橋政方著 『英語箋』
- ^ 石原千里「1858年長崎におけるヘンリー・ウッドの英語教育」『英学史研究』第2001巻第33号、日本英学史学会、2000年、13-27頁、ISSN 1883-9282。
- ^ a b c 杉本つとむ「続・幕末の洋学事情-近代の発信地、長崎と蘭医と近代教育-」『早稲田大学図書館紀要』第42巻、早稲田大学図書館、1995年12月、1-55頁、ISSN 0289-2502、NAID 120006349631。
- ^ 『官報』第1473号「叙任及辞令」1888年5月30日。
- ^ 『官報』第1935号「叙任及辞令」1889年12月9日。
- ^ 『官報』第1322号「叙任及辞令」1916年12月27日。
- ^ 『官報』第363号「叙任及辞令」1884年9月11日。