渡辺啓助
1901年1月10日(1900年末?) - 2002年1月19日)[1]は、日本の推理作家。本名は渡辺 圭介。渡辺伊太郎・渡辺ツネの次男で、画家の渡辺東は娘、推理作家の渡辺温は実弟である。秋田県秋田市生まれ。
(わたなべ けいすけ、来歴
編集セメント技師の父の赴任のため、生後まもなく北海道谷好村(現在の北斗市)に、次いで1905年東京・深川に、1912年茨城県高鈴村(現在の日立市)に転居。茨城県水戸中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)を経て、1920年青山学院高等部英語師範科入学。1925年同校を卒業し、群馬県立渋川中学校(現在の群馬県立渋川高等学校)で英語教員となるが、翌1926年辞職し九州帝国大学(現在の九州大学)法文学部史学科に入学。西洋史を専攻した。
大学在学中の1928年、渡辺温とともに江戸川乱歩名義でエドガー・アラン・ポーの短編を翻訳、「ポー、ホフマン集 世界大衆文学全集30」(改造社)に掲載。1929年、「新青年」の企画「映画俳優による探偵小説競作」に、当時の人気俳優岡田時彦のゴーストライターとして、処女作「偽眼(いれめ)のマドンナ」を発表。
1930年大学を卒業し、福岡県八女中学校の歴史教師になる。この頃の教え子に、小島直記、中薗英助がいる。
筆名を渡辺圭介→渡辺啓介→渡辺啓助と変えながら、「新青年」誌に短編を発表。1935年には第一作品集「地獄横丁」を刊行。1937年、茨城県立龍ヶ崎高等女学校に転任するが、校風を嫌い翌年辞職し上京、以後創作に専念。
1942年、大日本帝国陸軍報道部の嘱託により美川きよとともに「新青年」から大陸に派遣され、内モンゴルのオルドス地方などを視察。この見聞を元にして書かれた作品は3期連続で直木賞候補に推される。
終戦後は家族の疎開先である群馬県渋川町に落ち着き、昭和20年代をほぼこの地で過ごすことになる。「新青年」や「宝石」「講談雑誌」などに多数の短編を書いたほか、連載長編「東京ゴリラ伝」「悪魔の唇」を手掛けた。
1954年東京に戻る。1957年には、今日泊亜蘭、矢野徹らとSF同人「おめがクラブ」を設立。1960年から1963年には、木々高太郎に代わって日本探偵作家クラブ(現在の日本推理作家協会)4代目会長を務める。この頃から小説の発表は減り、絵・書や詩作などの表現活動を盛んに行うようになる。晩年は鴉に材をとり絵筆をふるった。また、文芸サークル「鴉の会」を主宰した。
戦前の「新青年」をはじめとする探偵小説界を知る最後の生き証人であった。2001年に100歳を記念したアンソロジー「ネメクモア」(東京創元社)が刊行された[2]。墓所は港区大増寺。
代表作
編集- 偽眼のマドンナ (新青年、1929年6月号)
- 地獄横丁 (新青年、1933年4月号)
- 聖悪魔 (新青年、1937年1月号)
- 密林の医師 (新青年、1942年6月号)
- オルドスの鷹 (新青年、1942年11月号)
- 西北撮影隊 (新青年、1943年5月号)
- 魔女物語 (新読物、1946年10月号)
- 浴室殺人事件 (クラブ、1949年2月号)
- 鮮血洋燈 (講談社・書き下ろし、1956年)
- 吸血鬼考 (宝石、1957年7月号)
- 海・陸・空のなぞ (新潮社・書き下ろし、1958年)
- クムラン洞窟 (宝石、1959年2月号)
- 海底結婚式 (桃源社・書き下ろし、1960年)
- 探偵横丁下宿人 (小説推理1976年1月号~1977年12月号)
- 鴉 誰でも一度は鴉だった (山手書房、1985年)
賞候補歴
編集- 直木三十五賞候補 — 「密林の医師」「オルドスの鷹」(1942)、「西北撮影隊(後に「洞窟の女学生」と改題)」(1943)
- 日本探偵作家クラブ賞候補 — 「血笑島にて」(1957)、「吸血鬼考」(1958)、「寝衣(ネグリジェ)」(1959)ほか