汲 金純(きゅう きんじゅん)は、中華民国の軍人。北京政府奉天派に属した。海峰殿一。通称に大英もある。

汲金純
『改訂 現代支那人名鑑』(1928年)
プロフィール
出生: 1877年光緒3年)
死去: 1948年民国37年)
中華民国の旗 中華民国
出身地: 清の旗 盛京将軍管轄区奉天府海城県
職業: 軍人
各種表記
繁体字 汲金純
簡体字 汲金纯
拼音 Jí Jīnchún
ラテン字 Chi Chin-Ch'un
和名表記: きゅう きんじゅん
発音転記: ジー ジンチュン
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事績

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緑林の徒から馮徳麟配下となり、奉天巡防営で軍歴を重ねた。1913年民国2年)、[1]陸軍第28師第56旅旅長となる。1915年(民国4年)9月、陸軍中将銜を授与された。1917年(民国6年)7月、反張作霖の兵を挙げた馮徳麟が敗北、失脚する。しかし汲金純は同年8月に張作霖から遼西臨時剿匪司令に任ぜられており、さらに同年11月、馮を後継する形で第28師師長に任命された。翌1918年(民国7年)には陸軍中将に昇進している。[2][3]

1921年(民国10年)6月、汲金純は蒙疆中路総司令に起用され、同年9月には熱河都統に抜擢される。1924年(民国13年)、奉天第4軍副軍長兼第9師師長となる。1926年(民国15年)10月、安国軍第15軍軍長に任命され、その翌月には、[4]綏遠都統に任命された。[3]1928年(民国17年)、奉天軍の撤退とともに、山海関警備司令に任命された。後に東北辺防司令長官公署参議に異動している。1948年(民国37年)、死去。享年72。[2]

  1. ^ 徐主編(2007)、403頁による。外務省情報部編(1928)、792頁は、1912年(民国元年)とする。
  2. ^ a b 徐主編(2007)、403頁。
  3. ^ a b 外務省情報部編(1928)、792頁。
  4. ^ 徐主編(2007)、403頁による。外務省情報部編(1928)、792頁は「同年12月」としている。

参考文献

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  • 来新夏ほか『北洋軍閥史 下冊』南開大学出版社、2000年。ISBN 7-310-01517-7 
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 外務省情報部編『改訂 現代支那人名鑑』東亜同文会調査編纂部、1928年。 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 

外部リンク

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   中華民国北京政府
先代
姜桂題
熱河都統
1921年9月 - 1922年5月
次代
王懐慶
先代
商震
綏遠都統
1927年11月 - 1928年6月
次代
李培基