本膳料理
本膳料理(ほんぜんりょうり)とは、日本料理のひとつ。
「食事をとる」という行為自体に儀式的な意味合いを持たせているのが特徴。
室町時代に確立された武家の礼法から始まり江戸時代に発展した形式。しかし明治時代以降ほとんど廃れてしまい、現在では冠婚葬祭などの儀礼的な料理に面影を残す程度である(婚礼の際の三々九度など)。更に、肝心の料理店自体が用語の使い方を誤っている例がしばしば見られる(単なる婚礼や法事の会席料理や仕出し弁当に「本膳料理」という名前を付けている例がある)。
なお、茶会における宴会の本膳は「懐石」と呼び区別される。
歴史
編集起源と平安時代の大饗
編集日本における宴会は酒礼・饗膳・酒宴の三部から構成され[1]、中国の唐礼や朝鮮半島からの影響を受け酒礼に三献を伴う儀式が成立したと考えられている[2]。酒礼は一同に酒が振る舞われる儀礼で、今日の乾杯や「駆付け三杯」にあたる[1]。酒礼の後には飯汁を中心とした饗膳(膳、本膳)に入り、茶や菓子も含まれる[3]。酒礼と饗膳は座を変えて行うことが多く、平安時代の饗宴においては酒礼・饗膳を「宴座」、宴会の酒宴は「穏座」と呼称して区別していた[3]。
平安期には祭礼や節会などにおいて大饗(だいきょう)と呼ばれる貴族の儀礼食が存在した[4]。平安貴族が大臣に任官した際には「大臣大饗」が開かれ、正月には「正月大饗」が開かれた[5]。平安期の酒宴では肴と吸物が饗膳の菜・汁とは明確に区別されておらず、また酒肴として一献ごとに芸能が献じられる点を特徴とする[3]。
平安後期の藤原頼長の日記『台記』保延2年(1136年)12月9日に記される大臣大饗の記事に拠れば、後代の式三献における「初献」の言葉は見られないが、主人から始まり一同が盃を取り、初献に相当する「一献」が行われている[5]。二献では主人の頼長が酒を飲んでいない点を特徴とし、これは大江匡房『江家次第』においても同様の記述が記され、当時の作法であったと考えられている[5]。三献では頼長は酒を飲んでいるが、『台記』に拠れば三献において主人が酒を飲むかの作法をめぐり議論が存在していたという[5]。
後代の式三献においては、三献ののち座を改め饗膳に入るが、平安期に大饗では三献と饗膳の間に明確な区別は見られない[5]。ただし、三献までは盃に様器を用いているのに対し、三献以下は土器を用いており、意識的な区別が存在していたと考えられている[6]。『台記』に記される大臣大饗では六献まで記され、酒肴は初献前に客前に二折敷の肴物が並べられている[7]。二献より前に主人の前にも同じ肴物が並べられ、三献では盃の後に飯汁が並べられ饗膳に入ったという[7]。
大饗では主人や客は兀子(ごっし)と呼ばれる椅子に着座し、客の前には机が置かれた[8]。古来から日本における日常食は一人分の料理を各自に配膳する銘々膳(個人膳)の様式が一般的であったが、儀礼食である大饗の饗膳料理は、台盤と呼ばれる大型の卓上に大量の菜類が並べられ、複数の客がこれを囲む共同膳の形式が取られた[9]。実際に客が口にする料理は一品ずつ配膳され、すでに後の本膳料理と同様に前の料理を片付けて次の料理に移る時系列的な食事が成立していたと考えられている[10]。また、後の本膳料理と同様に料理は「高盛」で供され、台盤の上に馬頭盤(ばとうばん)と呼ばれるくびれた皿が乗せられ、その上に箸と匙が乗せられた[11]。
後代には本膳料理の成立に伴い和様化する。台盤や椅子は用いられなくなり主人も客も床に着座し、銘々膳の形式が導され床に直に安置する高杯に料理が分けられる形式となる[12]。
本膳料理の成立
編集鎌倉時代、武家の間には「椀飯」という正月に御家人から将軍に料理を献上する儀式があった。当初は鯉一匹など簡単な物であったが、室町時代になり武家の経済的政治的優位が確立し、幕府政治の本拠地も公家文化の影響が深い京に移るに至って、料理の品数も増え、料理自体にも派手な工夫が凝らされるようになった。
南北朝時代には公家の一条兼良(1402年 - 1481年)の往来物『尺素往来(せきそおうらい)』において本膳・追膳(二の膳)・三の膳の呼称が記され、「本膳」の言葉が出現する[13]。また、室町時代には『蔭涼軒日録』長禄3年(1459年)に正月25日に将軍足利義政が御所において御煎点(ごせんてん)を行った際の饗膳が記されており、五汁二十五菜に及ぶ膳の数は疑問視されているものの、本膳料理の発達には寺社が携わっていたとも考えられている[14]。
室町時代には主従関係を確認する杯を交わすため室町将軍や主君を家臣が自邸に招く「御成」が盛んになり本膳料理が確立した。本膳料理の確立に伴い、室町時代から江戸時代には「献立」の言葉が使用され、饗宴における飲食全体を意味した。
形式
編集本膳料理の形式
編集本膳料理は主に式三献、雑煮、本膳、二の膳、三の膳、硯蓋からなり、大規模な饗宴では七の膳まであったとの記録もある。雑煮は初献に記されることがあるが、式三献と雑煮以下は場所を移している記録があることから、別物との説もある。本膳料理は七五三の膳を正式な形式としているが「七五三」の意味は本膳に7、二の膳に5、三の膳に3の菜が盛られる菜の数を示すとする説と、江戸時代の故実家・伊勢貞丈の『貞丈雑記』やジョアン・ロドリゲス『日本教会史』に拠る膳の数を示すとする説がある。
本膳料理は少なからず儀礼的な物であり、この後に能や狂言などの演技が行われつつ、後段と呼ばれるうどんや素麺といった軽食類や酒肴が出されて、ここで本来の意味での酒宴になった。なかには三日近く行われた宴もあったようだ。
膳組としては一汁三菜、一汁五菜、二汁五菜、二汁七菜、三汁五菜、三汁七菜、三汁十一菜などがあったとされる。もっとも基本的な形は、本膳には七菜(七種の料理)、二の膳には五菜(五種の料理)、三の膳には三菜(三種の料理)を配膳するものである。膳組の種類は菜の材料、さらに料理を盛る膳や器は客の身分・役職により変化し、身分の上下に伴い簡略化される[15]。
式三献
編集式三献は宴会の三部のうち、はじめの酒礼にあたる。室町時代の記録によれば、室町期の御成は午後2時・3時頃に主君が到着し、当主は門前で主君を迎えた後に邸内へ招き、式三献が行われる公饗の間(くぎょうの間)と呼ばれる部屋へ案内する[16]。公饗の間は書院造の部屋であるが、古い寝殿造の様式を残していたという[16]。式三献は今日の結婚式における三三九度として形を残している[17]。
室町将軍の御成記や武家故実書によれば、式三献は主殿(寝殿)で行われ、その後、会所に移り、ここで改めて初献から三献までの三献が出された後、五の膳もしくは七の膳までが据えられる膳部となり、さらに四献以下の献部となることがわかる。主殿での式三献と会所に席を移しての初献から三献までの三献とは、全く別のものである。式三献では、初献に海月・梅干・打鮑、二献に鯉のうちみ(刺身)、三献にはわたいり(腸煎り~鯉の内臓の味噌煎り煮)が出されることが通例であるが、これらには箸をつけず、実際に食されることはない。式三献は、武家社会において、新たに生み出された儀礼であると考えられる[18]。
本膳料理の儀式性と引替膳
編集本膳料理に特徴的なのはこうした膳の多くが「見る」料理であり、神饌(しんせん)や仏供と同様に飯・餅などを「高盛」と呼ばれる飾り盛で供された。実際に食べる事ができる料理は決して多くは無かった。本膳料理が形骸化すると実際に食べる部分が少なくなったことから、食べるための膳として引替膳が編み出された。引替膳は室町時代には遡らず、天正9年(1581年)の織田信長が徳川家康を饗応した「御献立集」において見られる。
江戸時代には慶長12年(1607年)から文化8年(1811年)まで朝鮮通信使の来日が行われ、幕府や沿道諸藩による饗応では七五三・五五三の本膳料理が供された。この際にも引替膳が出された[19]。
配膳
編集配膳の順序は、本膳、二の膳、三の膳、四の膳、五の膳の順にし、上座の客を先に、順次、下座の客におよぶようにし、最後に主人に配膳する。膳は、料理に呼気がかからないように両腕を伸ばし、身体から離して高めに捧げ持つ。持ち方は、膳を先方に向け、左右の両縁にそれぞれ両手を掛けて、客の前、適当な位置に進める。本膳は客の正面に、二の膳は客から向かって本膳の右に、三の膳は同じく左に、四の膳は、本膳のむこうがわ、本膳と二の膳との間に、五の膳は、同じく本膳と四の膳との間にかけて置く。
本膳料理の「家元」
編集室町時代の中期頃には、複雑になった本膳料理を専門に調理する料理流派が成立した。「大草流」「進士流」が有名で、『大草殿より相伝之聞書』など師匠から弟子へ一子相伝の料理の“秘法”を伝えていた。一方、礼法家の立場からは、本膳料理の食事作法を定めるようになり、小笠原流の『食物服用之巻』などのハウツー本が生まれた。
硯蓋
編集硯蓋(すずりぶた)は、江戸時代に出現したもので、卓袱料理や砂糖の普及とも絡んでいると思われる特異な献立である。当初は文字通り、硯の蓋に供されたともいわれる。硯蓋に出される料理はきんとん、羊羹、寒天菓子等の甘味類(料理の一品として出されるため料理菓子、口取り菓子とも呼ばれる)、あるいは蒲鉾、牛蒡や小魚の佃煮といった保存の利く食物が多く、これらは賓客が持ち帰る慣わしであった。ちなみに、御節料理としてお馴染みの伊達巻も硯蓋でよく出された料理といわれ、長崎では食感や製法の類似性から「カステラかまぼこ(カスティラかまぼこ)」とも呼ばれており、この三つの関連性は高いと思われる。
懐石料理における八寸に似ているが、八寸がその場で食べて(これを食い切りという)、料理も酒肴に近い物が供されるが、硯蓋は前記のように菓子類や保存性の高い食品が盛られる。関西では硯蓋の料理を口取りといい、内容は似ているがその場で食べる慣わしであった。現在はコストや慣習の問題から廃れている。
脚注
編集- ^ a b 熊倉(1998)、p.15
- ^ 熊倉(1998)、p.18
- ^ a b c 熊倉(1998)、p.16
- ^ 熊倉(1998)、pp.16 - 17
- ^ a b c d e 熊倉(1998)、p.17
- ^ 熊倉(1998)、pp.17 - 18
- ^ a b 熊倉(1998)、p.20
- ^ 熊倉(2008)、p.11
- ^ 熊倉(1998),p.21、熊倉(2008),p.18
- ^ 熊倉(1998)、pp.23 - 24
- ^ 熊倉(2008)、pp.18 - 21
- ^ 熊倉(1998)、p.25
- ^ 熊倉(2008)、p.70
- ^ 熊倉(2008)、p.72
- ^ 濱田・林(1998)
- ^ a b 熊倉(2008)、p.75
- ^ 熊倉(2008)、p.77
- ^ 櫻井信也『和食と懐石』(淡交社、2017年)
- ^ 大坪藤代・秋山照子「朝鮮通信使饗応食(第2報) 七五三本膳料理と引替」『長崎女子短期大学紀要 14』(1990年)