慕容超
慕容 超(ぼよう ちょう)は、五胡十六国時代の南燕の第2代(最後)の皇帝。
末主 慕容超 | |
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南燕 | |
第2代皇帝 | |
王朝 | 南燕 |
在位期間 | 405年 - 410年 |
姓・諱 | 慕容超 |
字 | 祖明 |
生年 | 燕元2年(385年) |
没年 | 太上6年(410年) |
父 | 慕容納 |
母 | 段太后 |
后妃 | 呼延皇后 |
年号 | 太上 : 405年 - 410年 |
生涯
編集建熙11年(370年)、前燕が前秦により滅ぼされると、父の慕容納は前秦に仕え、後に張掖に移った。慕容納の弟の慕容徳は前秦苻堅の命により東晋討伐軍に参加した。建元19年(383年)に前秦が淝水の戦いで敗北すると、慕容納・慕容徳の兄弟は上の兄慕容垂が自立した後燕政権に参加したが、慕容納及び慕容徳の諸子は殺害された。この時慕容納の妻である段氏は懐妊していることより死刑執行が中止され投獄された。この時獄卒となっていた呼延平は以前慕容徳に仕え、助命されたことがあった。呼延平はそれに報恩すべく段氏の羌(後秦)への逃亡に協力し、段氏は慕容超を出産した。
その後後涼に逃れたが、後涼が後秦に滅ぼされると長安に移った。ここで慕容超は呼延平の娘と結婚した。慕容超は後秦の疑惑から逃れるために、精神異常者のふりをしながら物乞いをして暮らした。当時既に南燕を建国して皇帝となっていた叔父の献武帝慕容備徳(慕容徳)がこれを聞きつけ、迎えの使者を派遣した。南燕に到着した慕容超は北海王に封じられた。
建平6年(405年)、献武帝の崩御にともない皇帝に即位、太上と改元した。即位後は信頼していた公孫五楼の讒言を容れ、功臣をことごとく粛清し、また享楽に走り民衆を苦しめたと史書にある。
太上3年(407年)、生母の段氏及び正妃の呼延氏が後秦に留まっていたことにより、後秦の藩鎮を称し、生母、正妃の送還を実現している。後秦に臣従した後、末主は南進して淮北を攻撃、東晋への対抗を計画する。しかし太上5年(409年)に東晋将領劉裕の軍勢により反撃を受け、翌年には都城である広固(現在の山東省青州市)が陥落、末主は捕虜となり、東晋の都建康(現在の江蘇省南京市)に送致され斬首されて南燕は滅亡した。
- 『晋書』巻108~111、巻123~128に基づく。