恐怖政治

投獄や殺戮などによって、国民を恐怖で支配する政治

恐怖政治(きょうふせいじ)(:la Terreur、:Reign of Terror[1])とは、大量処刑といった殺戮という苛烈な手段によって、反対者弾圧して行う政治のこと[2](フランス語: terreur)[3]。 由来は、断頭台などを用いた「大量処刑を伴ったため」に恐怖政治と呼ばれており、フランス革命時に自らも断頭台で処刑されることになるロベスピエールを中心とするジャコバン派山岳派)革命独裁政権が行った国家統治[2][4]

概要

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恐怖政治下では、国家の最高権力者やその配下が、自らの敵と見なした人たちを殺戮(処刑・自殺誘導・暗殺など殺害行為を大規模に行うこと)するので、犠牲者は万単位レベルと多い。恐怖政治とは、暴力的統治の中でも最も苛烈な弾圧である「大量殺戮」を行うことによって、 (ほぼ)全ての国民に恐怖を抱かせ、強引に自らの権力個人崇拝体制を保つような政治全般のことである。「恐怖政治」という言葉の生みの親となったマクシミリアン・ロベスピエール以外の恐怖政治家の代表例として、スターリンポル・ポト毛沢東金日成金正日金正恩などが知られている。スターリンによる恐怖政治下における被殺害者数はレーニン時代からソ連崩壊までの歴史においても最も膨大である。その具体例として1934年ソ連党大会に出席した約2000人のソビエト連邦人民代議員(ソ連人民代議員)のうち中、1939年の党大会に出席できたのはわずか3%であり、レーニン時代の最高幹部を含むほとんどが処刑や自殺暗殺などで死に追いやられている[5]

恐怖政治の由来は、フランス語の普通名詞で「terreur(テルール)」であり、元々の語義は恐怖だったが、フランス革命時にロベスピエールらが国民に恐怖を引き起こさせるような断頭台で大量処刑を行うという政治手法を採り、当時のフランス国民がそれを「terreur」と表現し、その後も同様の政治手法を用いる権力者が登場したことで、それも同様に呼ぶようになった[2]

フランス語においてはメタファー(例え)の技法や詩的表現が発達しているため、フランス語話者には「terreur」だけで十分伝わるが、日本語の語感では「恐怖」だけでは分かりづらいので、後ろに「政治」を付け加えて明示することで、「恐怖政治」と訳している。この「terreur」が、「テロ(=テロリズム)」の語源でもある。

特にフランス革命時のterreurだけを指す場合は(つまり固有名詞的に用いる場合は)、フランス語では前に定冠詞のlaを付けて大文字で始め「la Terreur」と表現する。共産主義(社会主義)やファシズム国家といった独裁政治(一個人・少数者または一党派が絶対的政治権力を独占する政治体制)など全体主義国家は左右問わず、公平・公開・自由という基本原則を満たす選挙が行われない政治体制は国民から民意による審判を受けないため、恐怖政治に基本的に陥るとされている[5]

本項では由来となるフランス革命時の恐怖政治から解説し、その後にフランス革命前後の恐怖政治一般について解説する。

フランス革命での恐怖政治

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ロベスピエール

ロベスピエール派

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ロベスピエール派は革命反対派、穏健派、過激派など反対派の人物を次々と処刑し、恐怖時代英語版をもたらした。ジョルジュ・ダントンカミーユ・デムーランジャック・ルネ・エベールアントワーヌ・ラヴォアジェリュシル・デュプレシなど多数が殺された。

恐怖政治が行われた間、パリだけで約1,400名、フランス全体では約2万人が処刑された。処刑方法には銃殺刑が多かったが、ギロチン断頭台)による刑がよく知られている。ただし、プレリアール22日法の制定によって、司法手続きが大きく簡略化されたため、正当な裁判なしでの死刑や獄中死も多く、それらを含めると犠牲者は4万人を超えるものと思われる[要出典]

ジャン=ジャック・ルソーの著作で述べられている社会を目指したことでも知られている。当初、山岳派はサン・キュロットら市民に支持を受け、恐怖政治下においてもそれは認められていたが、一般市民にも逮捕が及び、また、比較的平和に近づいてくると、恐怖政治は支持を失っていった。この政治形態は、1794年7月27日に行われたテルミドールのクーデターで、ロベスピエール派が失脚するまで続いた。

開始

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1793年3月10日革命裁判所(革命裁)が設置された。革命裁には上訴審がなく、簡略にして強力な決定権をもつ、危険な機関であった。告発検事にはフーキエ・タンヴィルが任命された。同年3月21日から4月2日にかけて、議会は各コミューンに反革命派取締のための監視委員会の設置、9人から成る公安委員会の設置を決定した。そして4月6日、革命裁判所の最初の法廷が開かれ、公安委員会が発足、恐怖政治への道を開いた。

この頃ジャコバン派では、ジロンド派山岳派が決裂し、ジャン=ポール・マラーやロベスピエールはジロンド派を裏切り者として攻撃した。当時、食糧難や経済の混乱から各地で民衆のデモが頻発しており、ロベスピエールはこの人民を利用する計画を立て、集会に参加するサン・キュロットに金が支払われ、人民を扇動する方策が講じられた。

5月25日、ロベスピエールは人民の蜂起を求める演説をおこなった。5月31日、ロベスピエールの計画に基づきジロンド派の追い落としが開始された。33のセクションの代表者が集められコミューンと協力し、人民軍の指揮はアンリオがとることになった。6月1日、ジロンド派のロラン夫人が逮捕、ジロンド派の新聞は禁止された。翌日、アンリオは武装した群衆を率いて国民公会を包囲、逃亡しようとする議員に議事の進行を要求、ジロンド派幹部の議員29名と大臣2名の追放と逮捕が議決された。のちに29人のうち20人が地方へ逃げたが、そのうち数人は処刑され、2人は自殺した。こうして6月2日からジャコバン派独裁が開始される。

進展

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シャルロット・コルデーによるマラー暗殺(ポール・ボードリー画)

山岳派独裁開始後も、当初はジロンド派の抵抗が見られ、地方では6月2日事件への反発が強かった。ジロンド派の宣伝に影響を受けたシャルロット・コルデー7月13日にマラーを殺害した。しかし、こうした抵抗も空しく、多くの人間が断頭台の露と消えることとなる。

6月23日には1793年憲法(通称「ジャコバン憲法」)が制定される。民衆やサン・キュロットなど議会外の要求を代弁する「アンラジェ」のジャック・ルーヴァルレの主張により、より大きな権限が公安委員会に付与されることになる。公安委員会は再三改組され、7月にジョルジュ・ダントンらは排除され、9月に最終的に12人の委員が決定された。これによりロベスピエールが指導権を掌握、ジョルジュ・クートンルイ・アントワーヌ・ド・サン=ジュストなどがそれを補佐する構造が完成した。革命裁判所では検察官のフーキエ・タンヴィルが仮借のない弾圧の執行者となった。

山岳派は、農民の心をつかむため、6月には国有地の小区画での売却や、共有地の分割を認める法律を制定しており、7月17日には領主権の無償廃止を決定する。さらに、27日には、小麦を独占・隠匿したものに対する極刑を規定した。

山岳派と国民公会は要求に応じる形で、巧みに自分たちの政策実現を果たした。

この頃、民衆が武装して一団となって立ち上がるべきだ、という要請が直接行動を重視するセクションの意見として議会に提出されていた。ロベスピエールが議長となった国民公会は、8月23日、ダントンの介入でこれを採択。しかし、これはセクションのイメージと違い、軍を立て直すための一種の国民総動員令であった。これにより93年秋から94年春までに、40万近い兵力が調達された。

公安委員会は9月5日にジャック・ルーを、9月18日にはヴァルレを相次いで逮捕した。「アンラジェ」のクラブや出版物も禁止された。9月には民衆のデモに応えて食糧の価格統制が定められ、同月末には全般的価格統制法が制定され、経済統制が実施されるようになった。10月10日、サン・ジュストが公安委員会を代表して演説し、国民公会は「フランスの臨時政府は、平和が到来するまで、革命的でありつづける」ことを宣言した(革命政府宣言)。

 
王妃アントワネットの処刑(1793.10.16)

10月16日には王妃マリー・アントワネットが処刑された。粗末な服を着せられ、両手を後ろ手に縛られた彼女は、群衆の中を刑場に送られ、断頭台の露と消えた。ついで、ジロンド派の粛清が行なわれた。国民公会は3日間しか弁論の期間を与えず、21人のジロンド派全員が死刑判決を受けた。うち1人は自殺し、ブリッソーピエール・ヴェルニヨら20人は10月30日にギロチンで処刑されたが、処刑に要した時間はわずか38分であった。11月8日にはロラン夫人が処刑された。彼女は「ああ自由よ、汝の名においていかに多くの罪が犯されたことか!」と叫んだという。その死を知った夫のジャン=マリー・ロランは自殺した。

さらに天文学者でパリ市長でもあったフイヤン派ジャン・シルヴァン・バイイ三頭派のリーダーであるバルナーヴも処刑された。逃亡中のコンドルセは服毒自殺した。国王ルイ15世の愛妾であったデュ・バリー夫人は金持ちというだけで処刑された。また有名な化学者アントワーヌ・ラヴォアジエは、徴税請負人の仕事もしていたために審理が終わらないまま「共和国は学者を必要としない」という理由で処刑された。ルイ16世の死刑に賛成票を投じた王族のオルレアン公(平等公)が処刑されたのは1793年11月6日のことである。

12月4日、法令により政府の細目が制定される。これにより、公安委員会が外交・軍事・一般行政を、保安委員会が治安維持を担当することになった。

1794年には、ルイ16世の妹であるエリザベート王女、ルイ16世の弁護をつとめたギヨーム=クレティアン・ド・マルゼルブ英語版ラ・ロシュフーコー=リアンクール公爵ラ・ロシュフーコーの孫)、詩人のアンドレ・シェニエも処刑された。後に皇帝ナポレオン1世の皇后となるジョゼフィーヌの先夫アレクサンドル・ド・ボアルネ子爵が処刑されたのはテルミドールのクーデタのわずか4日前の7月23日のことである。

革命裁判所が死刑を宣告した数は、1793年9月中旬から10月中旬までに15、次の1ヶ月間には65、翌年の2月中旬から3月中旬には116、3月中旬の1ヶ月では155、4月中旬からの1ヶ月では354にという風に漸次増加していき、それに合わせて裁判手続きは簡素化された。

地方での状況

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中央のパリでジャコバン派がイニシアティヴをとった後も、地方では王党派やジロンド派の勢力が残っていた場所があった。革命政府はそれらの地域に対し、中央のパリから派遣議員を送り、反革命派の粛清を図った。これに対する反革命派の抵抗により、フランス全土は内戦状態に陥る。

内戦により、ヴァンデリヨントゥーロンで革命軍による虐殺が起きた。ヴァンデの反乱は1793年末までに、ほぼ鎮圧され、ロワール川を渡りブルターニュを目指した8万人の農民のうち、生き残ったのは僅か4、5千人であった。リヨンでは派遣議員のジョゼフ・フーシェジャン=マリー・コロー・デルボワの指導のもとに教会の略奪が命じられ、叛徒の処刑が4ヶ月にわたり間断なく続けられ、犠牲者は2千人を越えた。トゥーロンでは、陥落後にポール・バラスルイ=マリ・スタニスラ・フレロンの指揮下で1794年1月末までに千人以上の処刑が行なわれた。

分派闘争

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ジャコバン派内では、マクシミリアン・ロベスピエール、もしくはサン・ジュストジョルジュ・クートンを加えた「三頭政治家」へのジョルジュ・ジャック・ダントン派(寛容派)とジャック・ルネ・エベール派の戦いという形で分派闘争が起きる。

1794年1月8日、ロベスピエールは、ジャコバン・クラブで、両派を激しく非難する演説を行なう。

矛先はまずダントン派に向けられた。インド会社の解散に伴う清算における横領が発覚し(インド会社事件)、1794年1月13日、詩人ファーブル・デグランティーヌが逮捕され、外国人から収賄している議員の名前を暴露した。これにより議員や銀行家、投機家が逮捕された。

2月、ロベスピエールは「民衆の革命政府の原動力は徳と恐怖である。徳なき恐怖は有害であり、恐怖なき徳は無力である」という有名な演説を行い、革命政府を擁護する[6]

2月末から3月初め、サン・ジュストが、反革命派の土地を没収し貧困者に無償で配分する、ヴァントーズ法を提案する。これには民衆運動を味方につける狙いがあった。

エベール派は民衆に対して公安委員会に反対して革命的運動をとるよう呼びかけた。3月13日、国民公会でサン・ジュストが「悪徳に対して戦え」と叫んだことから、エベール派の指導者が逮捕された。3月23日、エベール、ロンサンアントワーヌ=フランソワ・モモロジャン=バプティスト・クローツなどの過激派は、外国人と通謀し、市民を腐敗させる計画を練っていたとして処刑された。

その後、ロベスピエールは盟友のダントンを排除することを決定し、ダントンの腐敗について記したノートをサン・ジュストに手渡した。国民公会でダントンの逮捕が決定され、3月30日にダントンはカミーユ・デムーランらと共に逮捕された。ダントンは法廷で熱弁をふるい検事の論告を押し返したが、発言が停止させられ、彼が退席したまま討論が続けられ、4月4日に死刑判決が出され、翌日執行された。ダントンは首切り役人に「俺の首を人民に見せてやれ。それだけの値打ちはある」と語った。断頭台はダントン派の処刑で血の海となり、首切り役人(死刑執行人)は、言われた通りダントンの首を高々と差し上げて群集に示した。

結果

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パリで革命裁判所が設置された1793年4月から94年6月10日までに、1251人が処刑されたのに対し、審理を経ない略式判決が許された6月11日から7月27日、(テルミドール9日)までの僅か47日間で、パリの断頭台は1376名の血を吸い込んだ

恐怖政治のために反革命容疑で逮捕拘束された者は約50万人、死刑の宣告を受けて処刑されたものは約1万6千人、それに内戦地域で裁判なしで殺された者の数を含めれば約4万人にのぼるとみられる[要出典]

恐怖政治は疑心暗鬼の悪循環を生み出し、ロベスピエールらを孤立化させ、テルミドール反動を惹起する。

フランス革命後の恐怖政治や比喩

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共産主義国・社会主義国など東側諸国

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ソビエト連邦で主に粛清による恐怖政治を行ったスターリン

20世紀の恐怖政治について解説すると、ロシア革命穏健社会主義(メンシェヴィキズム)から急進社会主義(ボリシェヴィキズム)に乗っ取られ、革命で発足したソビエト連邦はボリシェヴィキによって恐怖政治が開始された。。帝政ロシアの庶民は1917年の二月革命と帝政の終わりを歓迎したが、社会秩序の崩壊とロシア皇帝とは比較にならない統治、つまり恐怖政治の開始に繋がることを知らなかった。特にヨシフ・スターリンはソ連指導者として恐怖政治(大テロル)を行っていたことが、しばしば指摘されている。スターリンは自らに少しでも反対するような様子を見せたら反革命と見做して粛清した(スターリン体制(スターリニズム)[7]。もっとも、ウラジーミル・レーニンも、旧ロシア帝国皇族(ロマノフ家)、貴族、資本家など、スターリンには数で負けるだけで、同じく裁判無しで大量処刑を沢山している。1917年の十月革命翌日以降から始まったゼネラル・ストライキ参加者処罰のためにチェーカー(反革命・サボタージュ取締全ロシア非常委員会KGBの前身)の設立後に活用・処刑対象者の選定や暗殺といった明確に恐怖政治の定義に沿った政治をしており、スターリンがソ連で恐怖政治を始めたのではなく、単にレーニンの手法を継承し、拡大させただけと指摘されている。日本の世論形成に大きな影響を与えていた学者、知識人など「進歩的知識人」だけでなく、日本社会党・日本共産党・新左翼は対立しながらも一致して「ロシア革命」は理想化していた。彼らのような西側諸国で恩恵を得ながら東側諸国側の「役に立つ」言動をしていた人々は、冷戦終結後による東側諸国の恐怖政治終了と報道規制終了後に確定となった国内の実態から「役に立つ馬鹿」という評価が主流となった。社会主義政党(マルクス主義政党)が没落し、「自由民主主義下での議会制社会主義」こと社会民主主義政党が左派第一党へ変わるなど、彼らの多数は冷戦崩壊後に政治的思想を共産主義・社会主義支持から右側に少し寄せた。ソ連崩壊後のロシア連邦でもプーチンは、就任日から日増しに独裁傾向をあらわにしつつある。ロシアで自由民主主義が開花せず、社会民主主義すらタブーのままである[8]

また、開発途上国社会主義国においては計画経済を好み、政治の安定や社会の近代化を優先・推進するために強権統治に陥りやすく、程度の差はあれ、恐怖政治的と言われる状況を伴う傾向がある。

ニコラエ・チャウシェスク(ルーマニア社会主義共和国大統領、ルーマニア共産党書記長、ルーマニア国家評議会第3代議長)は、個人崇拝や一族支配、恐怖政治を行った[9]

しかし、1978年から鄧小平の指導の下で開始された共産主義経済から資本主義経済への移行後に発展途上国とは言えない経済規模になった中華人民共和国のような旧東側諸国社会主義を標榜している国は、厳しい言論統制が続けられてちる。中国共産党政府や最高指導者の方針に批判の声をあげたら警察に逮捕されて、処刑される可能性がある。更に発展途上国かつ東側諸国である北朝鮮では、その中国よりももっと極端な独裁政治が行われ、強制労働収容所だけでなく、処刑場が確認される時点で318か所[10]もあり、大量処刑で国民を支配する恐怖政治が普遍的に行われている。最高指導者に不敬と見なされた場合は公開処刑に処される。(ヘゲモニー独裁制一党独裁制)。

非共産主義国に対する比喩

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ドイツアドルフ・ヒトラーもスターリンなどと並ぶ独裁者とされ、ゲシュタポなどを使って、反政権的な国民を監視したり、投獄するなどの「恐怖政治」的な手法を用いた。だがヒトラーの場合、その政治手法は「恐怖政治」と表現するよりも、巧みな演説術や言葉の抑揚、身振り等によって民衆を熱狂・陶酔させるところに力点がある。スタリーンと比較すると、ヒトラーの行動というのは当時のドイツ国民の期待に応えているような面も多かった[11]。そのためヒトラーは独裁者ではあれども、ソ連のように一般国民が自身も処刑されることを恐れる政治である「恐怖政治を行った」というのはあまり適当ではない。ナチスの議会進出時の1930年ドイツ国会選挙には、スタリーン主義者のエルンスト・テールマンが率いる共産主義政党(ドイツ共産党)が躍進しており、得票率12.32%で前回よりも23議席を増やし議会第3党となった。親共産党系以外というドイツ国民の多数派の人々からは、共産党政権よりもマシとして支持されたことにある。パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領も1933年3月ドイツ国会選挙で第一党を獲得したが議会過半数までは握っていない国民社会主義ドイツ労働者党(ナチス、得票率43.91%)のヒトラーを首相指名した背景にある。当時のドイツ共産党は前回よりは票を減らしたものの、得票率12.32%で議会第3党を維持していた。ソ連や中華人民共和国、カンボジア、北朝鮮という国民に対する大量処刑が溢れる本物の恐怖政治を研究すると、ユダヤ系国民などユダヤ人といったナチス政権の殺戮対象であるケースを除くと、各国の国民目線でナチズム政権下のが共産主義政権よりはマシというのは否定出来ない客観的事実が指摘されている[12]

 
ファシズム政治を行ったムッソリーニ

イタリアではベニート・ムッソリーニが、敵対勢力の取締を行ったが投獄レベルで大量処刑などは行っていない。スターリンなど共産主義国の様な大量虐殺や、大規模な収容所の設立もしていない。当時のドイツのようなユダヤ人大量処刑もなく、ナチズムをファシズムから派生した思想であるが、別の意味の言葉として分けられる要因である[13]

 
東條英機内閣

2016年参院選山口県選挙区民進党日本共産党社会民主党の野党3党の統一候補として出馬した纐纈厚は、日本東條英機内閣時代に憲兵を用いて人々を監視恫喝投獄するという独裁的、「恐怖政治」的な手法をとり、「(東条内閣当時の)一般民衆は監視・恫喝され、言いたいこと言うべきことを言う方法も勇気もなくなってしまった」と2008年に主張している[14]。但し、東條英機の在任期間の殆どは太平洋戦争と重複しており、連合国の中でも民主主義国家である英米でさえもも総力戦中の戦時体制は一般的に内政強権になり、反国家的と見なした者に対する監視・恫喝・投獄レベルの処罰は普通に行っているため、フランス革命の「テロル期」やソ連など共産主義国のように大量処刑が溢れている「恐怖政治」という表現は不適切であることは留意する必要がある。それだけでなく、独伊ソといった独裁者が率いる国家とは異なり、日本では東条内閣発足後でも親敵国系や日本国家否定的以外の東条政権批判は行われていた。そもそも独伊ソのような「国家指導者」は日本に存在せず、大日本帝国憲法当時の「首相」の権限は戦後の日本国憲法における「首相」におけるモノより圧倒的に弱かった。東条1人に権力が集中しているわけでなく、逆に第二次世界大戦の主要国の中で国内上層部が他国と異なり、一致団結出来ずに各種対立関係が続いていた問題点がある。そして、東条内閣自体も未だ第二次世界大戦の最中の1944年7月22日時点で終わり、小磯内閣が組閣されている[15]

韓国朴正煕政権を批判する人も多い一方で、開発独裁の成功者として信奉者も同じくらい多く、見解が二分されている。そのため、朴正熙政権時代の韓国批判派から「恐怖政治であった」と主張されることがある[16]

フランス革命以前の恐怖政治

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フランス革命以前の人物について恐怖政治を行ったとする指摘もある。シュテファン・ツヴァイクは、小説『カルヴァンとカステリョ,権力とたたかう良心』においてジャン・カルヴァン(1509-1564)の恐怖政治を描いた[17]

ほか、恐怖政治を行ったとしばしば言及される政治家にはオリバー・クロムウェル(1599年 - 1658年)などがいる[18][19]

脚注

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  1. ^ reign of terrorの意味・使い方・読み方 | Weblio英和辞書”. ejje.weblio.jp. 2025年2月24日閲覧。
  2. ^ a b c 広辞苑 第六版
  3. ^ 参考までにフランス語の定義は【terreur】「 peur collective qu'on fait régner dans une population pour briser sa résistance ; régime politique fondé sur cette peur, sur l'emploi des mesures d'exception」(Le Petit Robert, 1993)
  4. ^ 「恐怖政治の独裁者」ロベスピエールが、今なぜ再評価されるのか――「清廉なポピュリスト」の光と影(新潮社 フォーサイト)”. Yahoo!ニュース. 2025年2月24日閲覧。
  5. ^ a b 恐怖政治を生き抜く: 女傑コロンタイと文人ルナチャルスキー p11 鈴木肇
  6. ^ Linton, Marisa (August 2006). "Robespierre and the terror: Marisa Linton reviews the life and career of one of the most vilified men in history". History Today. 8 (56): 23.
  7. ^ 武・富田『スターリンの大テロル: 恐怖政治のメカニズムと抵抗の諸相』1998
  8. ^ レーニンの誤りを見抜いた人々−ロシア革命百年、悪夢は続くー p21, 鈴木 肇
  9. ^ 政治 X こども「独裁者はフィードバックが苦手?!」 國學院大學法学部准教授 藤嶋 亮”. 國學院大學. 2025年2月24日閲覧。
  10. ^ 北朝鮮の処刑場318カ所を特定 「韓国のテレビ見て死刑」 NGO報告”. BBCニュース (2019年6月11日). 2025年2月24日閲覧。
  11. ^ 桐生操『知っておきたい 世界の悪人・暴君・独裁者』2008年
  12. ^ 「ヒトラーとナチ・ドイツ」p13, 石田勇治 ·2015年
  13. ^ 「ヒトラーとナチ・ドイツ」p72 石田勇治 ·2015年
  14. ^ 『憲兵政治: 監視と恫喝の時代』 2008
  15. ^ 「歴史から学ぶ比較政治制度論──日英米仏豪── 」p172 小堀眞裕 2023
  16. ^ 路樹·吉留『朴政権の素顔: その恐怖政治・腐敗政治の実態』1974
  17. ^ 大川勇「カルヴァンとヒトラー : シュテファン・ツヴァイク『カルヴァンに抗するカステリョ、あるいは権力に抗する良心』におけるカルヴァン像とヒトラー像の同一性について」社会システム研究17, 2014,p1-13, 京都大学大学院人間・環境学研究科 社会システム研究刊行会
  18. ^ 梶山健『世界の名言臨終のことば』PHP研究所
  19. ^ 岡田尊司『パーソナリティ障害: いかに接し、どう克服するか』PHP研究所

関連項目

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フランス革命下の恐怖政治関連

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恐怖政治一般関連

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