山口 圭司(やまぐち けいじ、1974年2月17日 - )は、日本の元プロボクサー

山口 圭司
基本情報
本名 山口 圭司
階級 バンタム級
身長 167cm
国籍 日本の旗 日本
誕生日 (1974-02-17) 1974年2月17日(50歳)
出身地 北海道函館市
スタイル 左ボクサータイプ
プロボクシング戦績
総試合数 38
勝ち 29
KO勝ち 11
敗け 8
引き分け 1
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北海道函館市出身。第22代日本ライトフライ級王者。元WBA世界ライトフライ級王者。左ボクサータイプで、入場曲はヨーロッパの「The FINAL COUTDOWN」。

現在は大阪府松原市在住。近鉄南大阪線河内天美駅側で、函館cafe&bar HamedⅡのマスターをしている。

人物・プロ転向前

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中学生の頃、井岡弘樹に憧れ函館大学付属有斗高等学校入学と同時に市内にあった桜井ボクシングジムでボクシングを始める。高校時代は全国高等学校ボクシング選抜大会インターハイ国民体育大会の三冠を達成。プロ転向後も懐の深い長身のアウトボクサーとして、ライトフライ級からバンタム級で活躍した。函館市民栄誉賞受賞者。

高校三冠王となり、有名私大やプロボクシングジムからの引く手あまただった。当初レパード玉熊から誘われ国際ボクシングスポーツジムに入門予定であったが、その後、憧れの井岡に直接誘われたのが決め手となり、自身と同じ全日本高校王者から18歳でプロボクサーとなった具志堅用高及び友利正の勧めもありグリーンツダボクシングクラブへ。その時の契約金は、当時としては日本プロボクシング史上最高の1,000万円(上原康恒古口哲新垣諭三谷大和らと並ぶ)であった。

憧れのボクサーはナジーム・ハメドだと言う山口は、卓越したスピードを持つ優秀なアウトボクサーであったが、長身ボクサーゆえの減量苦が付きまとった。

引退後は地元・パチンコ店のイメージキャラクターにもなり、その後は先輩・井岡が開設した「井岡ボクシングジム」→「井岡弘樹ジム(井岡ボクシングトレーニングジム)」のチーフトレーナーに就任後、前述の『函館cafe&bar HamedⅡ』でマスターをしている。

来歴

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ライトフライ級

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1992年5月17日、プロデビュー。その1か月後の6月15日、ジムの先輩でもあるWBA世界ライトフライ級王者井岡弘樹の世界戦の前座でデビュー2戦目を迎える。その後も井岡の世界戦前座に2度登場。

1994年9月19日、14戦目で日本王座初挑戦。座嘉比勝則と空位の日本ライトフライ級王座を争い、10回判定勝ち。王座獲得に成功。以後、3度の防衛を果たし、1995年7月に王座返上。

1995年9月5日、世界初挑戦。WBA世界ライトフライ級王者・崔煕庸韓国)に挑むも、12回判定負け(1-2)で王座獲得ならず(40日前に急遽決まった世界戦であり、短期間で18kgの減量を強いられた)[1]

1996年5月21日、世界再挑戦。1月に崔を降してWBA世界ライトフライ級王座を獲得したカルロス・ムリーリョパナマ)に挑む。強打の王者相手に怯むことなく、アウトボクシングで攻略。12回判定勝ち(2-1)を収め、ちょうど20戦目で世界王者となった[1]

1996年8月13日、初防衛戦。前王者ムリーリョと再戦し、前回以上の差を付けての12回判定勝ちで返り討ち[1]

1996年12月3日、2度目の防衛戦。1位ピチット・チョーシリワットタイ)との指名試合を迎える。初回こそ静かな立ち上がりであったが、続く2回、顔を前に出すなど挑発的な行為で自ら隙を作り、それをテレビ実況で指摘された[2]直後に挑戦者の右フックを顎に受け、後頭部をキャンバスに打ち付ける強烈なダウンを喫する。立ち上がったものの脚はおぼつかず、結局レフェリーストップによるTKO負け。半年余りで世界王座陥落となった[1]。試合後、減量苦を理由にフライ級への転向を表明。

フライ級

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1997年11月22日、フライ級での世界挑戦。WBA世界フライ級王者ホセ・ボニージャベネズエラ)に挑む。2月に先輩・井岡の挑戦を退けた小柄な王者相手に序盤は優勢に試合を進めるも、迎えた6回、左の相打ちでダウンを奪われる。辛くも立ち上がり試合続行に応じたが、王者のさらなる追撃を浴びたところでレフェリーストップ。TKO負けで2階級制覇を阻まれる[1]。その後、フライ級でも減量が苦しくなったことから、スーパーフライ級転向を表明。日本王座から出直すことになる。

スーパーフライ級

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1998年10月25日、日本スーパーフライ級王者名護明彦に挑戦するも、10回判定負けを喫し王座獲得ならず。日本人選手相手に喫した初の敗戦であった。

1999年、グリーンツダジムを離れ、元世界スーパーフェザー級王者小林弘が会長を務めるTAIKOH小林ジムに移籍。

1999年9月5日、2年ぶりの世界挑戦。WBC世界スーパーフライ級王者・曺仁柱(韓国)に挑むも、最終12回に2度のダウンを奪われた末の判定負けを喫し2階級制覇ならず[1]。この試合は「DIRECTVボクシング」としてPPVで独占生中継されており、日本初のプロボクシング世界タイトルマッチPPV中継となった[3]

2000年、TAIKOH小林ジムを離れ、新日本木村ジムへ移籍。

2000年10月10日、移籍初戦で有永政幸(後の日本ならびにOPBF東洋太平洋スーパーフライ級王者)と対戦するも、4回TKO負け。この敗戦で世界戦線から完全に脱落。なお、この試合はOPBF東洋太平洋バンタム級王座挑戦に向けての前哨戦と位置付けられていたが、KO負けで挑戦は取り止めとなった。

2001年5月5日、フィリピン首都マニラでWBCインターナショナルスーパーフライ級王座挑戦。元WBC世界スーパーフライ級王者ジェリー・ペニャロサフィリピン)に挑むも、初回TKO負け。

バンタム級

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2002年、TAIKOH小林ジムに復帰し、4月8日、元日本バンタム級王者の瀬川設男とノンタイトル戦を戦うが3回TKO負け。これで3戦連続KO負けとなり、結局この試合を最後に現役引退。11月、グリーンツダジム時代の後輩である本田秀伸の世界初挑戦の興行で引退式を行った。

戦績

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  • プロボクシング - 39戦30勝(11KO)8敗1分
日付 勝敗 時間 内容 対戦相手 国籍 備考
1 1992年5月11日 1R KO 大西文和(岡崎)   日本 プロデビュー戦
2 1992年6月15日 4R 判定 小野田貴行(岡崎)   日本
3 1992年7月1日 1R KO 石川浩司(松田)   日本
4 1992年8月27日 5R KO 高岡謙二(森岡)   日本
5 1992年10月8日 8R 判定 ジョージ・ウバルド   フィリピン
6 1992年11月18日 2R KO ダッシュ東保(冷研鶴崎)   日本
7 1993年1月29日 10R 判定3-0 ジョー・コンスタンチン   フィリピン
8 1993年5月12日 10R 判定 キム・ソンホ   韓国
9 1993年6月21日 6R 判定3-0 リー・エスコビト   フィリピン
10 1993年8月9日 7R KO キム・ジェウン   韓国
11 1993年11月8日 10R 判定 テキサス・マック・ゴメス   フィリピン
12 1994年4月13日 10R 判定 ニロ・アノサ   フィリピン
13 1994年6月27日 3R TKO サミー・タイソン   フィリピン
14 1994年9月19日 10R 判定3-0 座嘉比勝則(草加有沢)   日本 日本ライトフライ級王座決定戦
15 1994年11月15日 6R TKO 天馬翔(三迫)   日本 日本王座防衛1
16 1995年5月9日 10R 判定 榊原大樹(稲毛)   日本 日本王座防衛2
17 1995年6月14日 10R 判定2-0 安部悟(松田)   日本 日本王座防衛3
18 1995年7月5日 6R 判定3-0 ホーベン・ホルダ   フィリピン
19 1995年9月5日 12R 判定1-2 崔熙墉   韓国 WBA世界ライトフライ級タイトルマッチ
20 1995年12月23日 10R 判定 クリストファー・サギド   フィリピン
21 1996年5月21日 12R 判定2-1 カルロス・ムリーリョ   パナマ WBA世界ライトフライ級タイトルマッチ
22 1996年8月13日 12R 判定3-0 カルロス・ムリーリョ   パナマ WBA防衛1
23 1996年12月3日 2R TKO ピチット・チョーシリワット   タイ WBA王座陥落
24 1997年2月25日 10R 判定3-0 マーロン・カリーリョ   フィリピン
25 1997年6月30日 5R KO ジョジョ・トーレス   フィリピン
26 1997年11月22日 6R TKO ホセ・ボニージャ   ベネズエラ WBA世界フライ級タイトルマッチ
27 1998年2月9日 7R TKO 海戸渉(角海老宝石)   日本
28 1998年5月13日 1R TKO ビセンテ・アドレイアス   フィリピン
29 1998年8月24日 10R 判定 ルディ・エダニオ   フィリピン
30 1998年10月25日 10R 判定0-3 名護明彦(白井・具志堅S)   日本 日本スーパーフライ級タイトルマッチ
31 1998年12月19日 10R 判定 スズキ・カバト(新日本大阪)   日本
32 1999年4月10日 10R 判定3-0 赤沢貴之(倉敷守安)   日本
33 1999年6月7日 3R KO ナ・ドウン   韓国
34 1999年9月5日 12R 判定0-3 曺仁柱   韓国 WBC世界スーパーフライ級タイトルマッチ
35 2000年3月18日 10R 判定 キム・ヒョンスン   韓国
36 2000年8月28日 10R 判定 キム・ヒョンスン   韓国
37 2000年10月10日 4R KO 有永政幸(関博之)   日本
38 2001年5月5日 1R TKO ジェリー・ペニャロサ   フィリピン WBCインターナショナルスーパーフライ級タイトルマッチ
39 2002年4月8日 3R TKO 瀬川設男   日本
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獲得タイトル

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脚注

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  1. ^ a b c d e f ボクシング・マガジン編集部 『日本プロボクシング史 世界タイトルマッチで見る50年』 ベースボール・マガジン社、2002年、70-72、115、145頁
  2. ^ (日本語) 日本人ボクサー達のダウン&ノックアウト集【衝撃!!】, https://www.youtube.com/watch?v=OgnH8NsXBqs 2022年5月8日閲覧。 
  3. ^ “ディレクTV、ボクシング世界戦、PPVで独占生中継。”. 日経産業新聞. (1999年6月25日). https://www.nikkei.com/compass/content/NIRKDB19990625NSS0024/preview 2023年7月14日閲覧。 

関連項目

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外部リンク

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空位
前タイトル保持者
細野雄一
第22代日本ライトフライ級王者

1994年9月19日 - 1995年7月3日(返上)

空位
次タイトル獲得者
塩濱崇
前王者
カルロス・ムリーリョ
WBA世界ライトフライ級王者

1996年5月21日 - 1996年12月3日

次王者
ピチット・チョーシリワット