大韓帝国

かつて東アジアに存在した君主制帝国
大韓帝国
大韓帝國대 한 제 국
李氏朝鮮 1897年 - 1910年
光武元年 - 隆熙4年
日本統治時代の朝鮮
大韓帝国の国旗 大韓帝国の国章
国旗国章
国の標語: 朝鮮語: 광명천지光明天地
世界を明らかに
国歌: 대한제국 애국가(朝鮮語)
大韓帝国愛国歌(1902年 - 1910年)
大韓帝国の位置
大韓帝国の領土
公用語 朝鮮語
首都 漢城府
皇帝
1897年 - 1907年 光武帝(高宗)
1907年 - 1910年隆熙帝(純宗)
内閣総理大臣
1905年 - 1905年韓圭卨
1905年 - 1907年朴斉純
1907年 - 1909年李完用
1909年 - 1910年朴斉純
1910年 - 1910年李完用
面積
1907年221,000km²
人口
1907年13,000,000人
変遷
 下関条約で清が朝鮮の独立を認めたことで冊封関係は消滅したため、朝鮮国から改称 1897年10月12日
第二次日韓協約調印・日本の保護国化1905年11月17日
ハーグ密使事件1907年6月
韓国併合により滅亡1910年8月29日
通貨
時間帯UTC +8:30(DST: 127°30′)
現在大韓民国の旗 韓国
朝鮮民主主義人民共和国の旗 北朝鮮

国璽

鷹模様

大韓帝国(だいかんていこく、朝鮮語: 대한제국大韓帝國〈テハンジェグク〉)は、1897年光武元年)から1910年隆熙4年)の滅亡に至るまで李氏朝鮮が用いた国号[1]である。大韓(だいかん、대한テハン)、韓国(かんこく、한국ハングク)とも言った[2]。また、現在の大韓民国(韓国)と区別するため、「旧韓国(きゅうかんこく)」と呼ばれることもある。

大韓帝国
朝鮮語表記
ハングル ᄃᆡᄒᆞᆫ뎨국(近世朝鮮語)
대한제국(現代朝鮮語)
朝鮮の漢字 大韓帝國
日本語読み: だいかんていこく
片仮名転写: テハンジェグク
ラテン文字転写: RR:Daehan Jeguk
MR:Taehan Cheguk
英語表記
アルファベット Korean Empire
Empire of Korea
Imperial Korea
朝鮮歷史
朝鮮の歴史
考古学 朝鮮の旧石器時代朝鮮語版
櫛目文土器時代 8000 BC-1500 BC
無文土器時代 1500 BC-300 BC
伝説 檀君朝鮮
古朝鮮 箕子朝鮮
辰国 衛氏朝鮮
原三国 辰韓 弁韓 漢四郡
馬韓 帯方郡 楽浪郡

三国 伽耶
42-
562
百済
高句麗
新羅
南北国 熊津都督府安東都護府
統一新羅
鶏林州都督府
676-892
安東都護府
668-756
渤海
698-926
後三国 新羅
-935

百済

892
-936
後高句麗
901-918
女真
統一
王朝
高麗 918-
遼陽行省
東寧双城耽羅
元朝
高麗 1356-1392
李氏朝鮮 1392-1897
大韓帝国 1897-1910
近代 日本統治時代の朝鮮 1910-1945
現代 朝鮮人民共和国 1945
連合軍軍政期 1945-1948
アメリカ占領区 ソビエト占領区
北朝鮮人民委員会
大韓民国
1948-
朝鮮民主主義
人民共和国

1948-
Portal:朝鮮
Emperor Gojong and the Crown Prince
下関条約でから独立し、大韓帝国へ改称後の皇帝高宗と皇太子純宗
大日本帝国の大礼服大勲位菊花大綬章など様々な勲章を纏っている高宗。
大日本帝国の大礼服と大勲位菊花章頸飾や大勲位菊花大綬章など様々な勲章を纏った純宗。(1910年〜1920年)
大日本帝国の大礼服と勲章を纏って座っている純宗。(1910年代初頭)
『大韓全図』(1899年、玄采『大韓地誌』附図)

日本は日清戦争に勝利したことで、1895年開国504年)に下関条約で李氏朝鮮を冊封体制から離脱させた。それを受けて、清朝との宗属関係も消滅した自主独立国家となったことを内外に示すため、第26代李氏朝鮮王である高宗皇帝に即位し、あわせて国号を改称した。ただし、専制政治・経済機構は李氏朝鮮時代の状況が続いた[3]朝鮮半島最後の専制君主国であるが、日露戦争後は日本保護国となり、1910年8月の韓国併合によって滅亡した[3]

国名

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国号大韓は、三韓統一を達する名称として出た。

原文
奉天承運皇帝詔曰:「朕惟檀,箕以來,疆土分張,各據一隅,互相爭雄,及高麗時,呑竝馬韓,辰韓,弁韓,是謂統合三韓。及我太祖龍興之初,輿圖以外,拓地益廣。」
現代語による大意
奉天承運皇帝[注釈 1]高宗)は次のようにを下された。「が思うに、檀君箕子以来、(朝鮮は)領土が分離され各々(の勢力)が各地を占めては互いに覇権を争ってきたが、高麗の時代に馬韓辰韓弁韓のいわゆる三韓を統合した[注釈 2]。そして我の太祖李成桂)が王位に就いた初期のうちに(従来の)国土以外にも領土を広げた[注釈 3]。」
— 高宗実録36巻、高宗34年10月13日(陽暦)2番目の記事より[4]。全文は、国史編纂委員会が公式HPを設けて公開している[5]

から下賜された国号「朝鮮」の変更提案

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高宗実録によると、家臣からからの冊封体制離脱に当たり、朝鮮王宮ではから 下賜された国号「朝鮮」を変更する提案が高宗になされた。その際、高宗は朝鮮を「三韓の地」と認識しており、かつ「韓」を含む名称が歴代の統一朝鮮王朝の国号として使われていなかったため、国号としての格が従来より上がる漢字一文字の「韓」に、修飾語の「」を加えた[6]「大韓」が新しい国号に定められた。

原文
上曰:「我邦乃三韓之地,而國初受命,統合爲一。今定有天下之號曰『大韓』,未爲不可。」
舜澤曰:「自三代以來,有天下之號,未有承襲于前者矣。而朝鮮乃箕子舊封之號也,堂堂帝國,不宜因仍其號矣。且大韓之號,稽之帝統之國,無襲舊者矣。聖旨切當,無敢贊辭矣。」
現代語による大意
お上(高宗)が言うには「我が国は三韓の地であるが、国の初め(李成桂の李朝樹立時)に天命を受けて一つの国に統合された。今、国号を『大韓』に定めては為らぬことは無い。」
舜澤(摂政の沈舜澤)が言うには「三代以来、国号は以前のものを踏襲した例がありません。ところで、朝鮮は箕子がかつて(武王から)封じられた時の称号であるので、堂々とした皇帝の国として、その称号(朝鮮)をそのまま使うのは正しくありません。『大韓』の称号は、皇帝の系統を継いでいる国で考えますと、古き者から踏襲したものではありません。聖上[注釈 4](高宗)の仰られることは極めて当然のことで、あえて付け加えるような言葉はございません。」
— 高宗実録36巻、高宗34年10月11日(陽暦)3番目の記事より[7]

また、国名を「帝国」としたのは、冊封からの離脱に際し、国王の称号を「皇帝」へと変更したからである[4]小島毅は、「清という皇帝がいる国の庇護下にある王国だったのが、日本が後押しして、清から自立した帝国になり、大韓帝国を正式な国号とします」と評している[8]

概説

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李氏朝鮮の清への冊封国時代

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朝鮮国(李氏朝鮮)は1637年、に敗北したことで三田渡の盟約を結ばされ、冊封国となっていた。その後、19世紀後半に列強帝国主義政策が東アジアにまで及ぶと、1875年の江華島事件を契機として翌1876年に日本と締結した日朝修好条規を始め、李氏朝鮮はアメリカフランスなどの欧米諸国と不平等条約を結ぶことになった。

このような情勢を受け、朝鮮国内では清国との冊封体制を脱して近代化をすべきだという者(開化党)と、清国との関係を維持すべきだという者(事大党)とが対立する。そうした中で1882年、両派の暗闘から壬午事変が起こり、日本公使館も暴徒に焼き討ちされて死亡者が発生する。公使館保護を名目とする日本と、朝鮮を属国と主張する清の両国は鎮圧を理由としてともに出兵、日清の対立は決定的となった。

日清戦争と下関条約による独立

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当時の朝鮮半島は、共に自らの勢力圏におさめようとする日本と清朝の角逐の場であったため、日本は権益を確立するため朝鮮国に対する清朝の影響を排除する必要があった。そして、1894年に日清戦争が勃発し、1895年に日本が清国に勝利、下関条約を締結した。この条約により、大日本帝国は清国に朝鮮が自主独立国であることを認めさせ、朝鮮国(李氏朝鮮)から清国に対する貢献・臣下の典礼等を廃止させた。こうして、冊封体制から離脱できた。

露館播遷以後と親露派政権の成立

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朝鮮国王高宗は1895年に閔妃が暗殺された乙未事変の影響で、1896年2月11日から1897年2月20日までロシア公使館に逃げた露館播遷が行われた。1897年2月20日に慶運宮へ戻った[9]。1897年にもはや清の属国でなくなった以上、「朝鮮」という国号を使用することは望ましくないという建言に従い、改称など以下の改革が実施された[3]ロシア帝国の庇護を求めた高宗は親露派の政権を成立させ、金炳始が同年2月11日から4月22日まで内閣総理大臣を務めた[9][10]

「大韓」への改称

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ロシア公使館から慶運宮へ戻った高宗教は配下から清から独立したことを表明するために改称すべきとの提案を受けて、1897年10月に国号を「朝鮮」から「大韓」と改めた[9]

  • 高宗は、圜丘壇を新たに設けて10月12日に祭天の儀式を行い、翌13日にを出して皇帝に即位した。大韓帝国の皇帝位は明朝の皇統を継承したことにより得たものとされた。

 

  • 李氏朝鮮の清への冊封の象徴であった大清皇帝功徳碑迎恩門があった。そのため、迎恩門があった場所へ独立門を立て独立を記念した。
  • 高宗以前の朝鮮王朝の歴代君主にも皇帝としての諡号が追贈(追尊)された。

諸外国の周辺の動き

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日本とロシアは小村・ウェーバー覚書及び山縣・ロバノフ協定を結んでいた。1897年9月、ロシア公使がカール・イバノビッチ・ヴェーバーからアレクセイ・ニコラビッチ・シュペイエルへと代わり、同年10月に彼が英国人ジョン・マクレヴィ・ブラウンを強制的に解任しようとする事件が起きた。また、ロシアは、アメリカの宣教師を独立協会の活動を支援しているとして大韓帝国内から排撃した[11]。アメリカ公使ホレイス・ニュートン・アレンは「韓国でのロシアの干渉は、現在、軍事的及び政治的問題に関連する最も親密な事柄に広がる。」と報告している[11]

しかし、その後ロシアは、三国干渉によって、1898年3月15日に清国と旅順港・大連湾租借に関する条約を結び、不凍港が手に入ることになると、韓国への関心が失われ、1898年3月23日には韓国から全てのロシアの軍事・民事アドバイザーが撤退した[11]。1898年4月25日、日本とロシアは、西・ローゼン協定を結んだ。しかし、その後、韓国政府が独立協会を排撃したため、アレンは「朝鮮人は外国勢力とそのアドバイスに学ばなければならない」として、韓国の統治能力に疑問を持ちはじめ、その状態は「ロシアの影響が完全に撤退されて以降、ますますひどくなった」と述べている[11]

財政問題及び通貨問題解決のための日本との貨幣制度統一

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李氏朝鮮時代の1896年7月から英国人の税関長ブラウンがの財政顧問となっていた。しかし、大韓帝国時代の1897年10月、ロシア公使シュペイエルが、財政顧問を英国人ブラウンからロシア人キリル・アレキセーフへと変えようとする事件が起きた。そもそも、朝鮮半島は通貨においては、韓国帝室が納付金という名の賄賂を徴した者に白銅貨の私鋳を黙許したため、白銅貨の濫造・密輸が横行し、その悪貨によって朝鮮半島内の商取引に問題が発生していた[12]


そのため、1904年10月に目賀田種太郎が新たな大韓帝国の財政顧問となり、同年11月、硬貨の鋳造を行っていた典圜局を閉鎖した。1905年7月、韓国は日本と同一の貨幣制度を採用し[12]、鋳造は大阪造幣局が行うようになった。1905年8月、ブラウンは税関長を辞め、韓国を去った。

近代化失敗と親露政策

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1899年には大韓帝国は清と韓清通商条約を結び、独立協会を弾圧して、立法機関である法規校正所において国家基本法である9ヶ条の「大韓国国制」を制定、近代化を目指す光武改革朝鮮語版を推進し土地調査や鉱山開発など殖産興業政策を実施するが、財源不足や諸外国の外圧により利権を奪われるなどして挫折する。

1905年8月22日に高宗ロシア帝国ニコライ2世に送った親書には、「大韓帝国は4000年の歴史を持つ独立国家」「日本に文字を教え、風習も伝えた」と主張したうえで、「2000万の国民が涙を流している。さらにさえ鳴けぬほどに生きられない」「日本が我が国の主権を侵奪しようとする陰謀を企てられないように公使をはやく再び派遣するよう涙で訴える」として、「日本が違法侵略をした」と内容となってている[13]

大韓帝国は4000年の歴史を持つ独立国家である一方、日本は1200~1300年代に入ってやっと国家を樹立した。日本のさまざまな風習は朕の国から由来し、文字も朕の国民が教えた。日本人たちは自分たちの先祖のように朕の国を尊敬し、朕の国とあえて敵対的関係を結ぶ考えもできなかった。…日本はあくらつで、ものものしく朕の国の主権を掌握している。現在の韓国がこうも悲しい情況に処した原因は、国家が虚弱で防衛もできず、権利を守ることができなかったためだ。そうだったとしても私たちは数回にわたり独立国家であることを宣言した。今、日本は確かに朕の国に君臨して独立を抹殺させようとしているが、違法である[13]

日露戦争とポーツマス条約締結による保護国化

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1905年、7月の桂・タフト協定(アメリカ)、8月の第二次日英同盟条約(イギリス)、9月成立のポーツマス条約(ロシア)により、日本の韓国(朝鮮半島)に対する独占的な指導権が列強によって承認され、同年11月の第二次日韓協約韓国統監府が設けられて日本の保護国となった。

日韓併合以降

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1910年の韓国併合ニ関スル条約(日韓併合条約)の締結により日本に併合され、大韓帝国は滅亡した。 大韓帝国の皇帝は、大日本帝国において1910年の詔勅前韓国皇帝ヲ冊シテ王ト為シ皇太子及将来ノ世嗣、太皇帝及各其儷匹ノ称呼ヲ定メ並ニ礼遇ノ件)により、昌徳宮李王に遇された。 なお、日本の知識人を中心に併合反対の世論も存在した。伊藤博文は朝鮮人による統治によって半島を近代化させる方針であったが、統監府時代の体験から朝鮮人のみでは近代化に至らないと判断するに至った。また、日本国内には、近代化されていないとされていた朝鮮人を帝国臣民にすることに対する否定的な論調も存在した。

歴史

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政治

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李氏朝鮮時代と変わらず、専制体制であった。そのため、中産階級的改革は阻止されていた[3]

大韓国国制

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1899年には「大韓国国制」と呼ばれる憲法が制定され、そこでは、

  1. 大韓国が自主独立の国であること
  2. 大韓国の政治は万世不変の専制政治であること
  3. 大韓国大皇帝が無限の君権を享有すること
  4. 大韓国大皇帝は不可侵であること
  5. 大韓国大皇帝が統帥権を有すること
  6. 大韓国大皇帝が法律制定権、恩赦権を有すること
  7. 大韓国大皇帝が行政各部の官制及び俸給を定めること
  8. 大韓国大皇帝が官吏の昇任降格を決定し、栄典を授与すること
  9. 大韓国大皇帝が外交権を有し、各国に使者を派遣・駐在させ、宣戦講和及び諸般の条約を締結する。

が定められた。

教育

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1894年から翌年にかけての甲午改革では、「四学」「郷校」など、李氏朝鮮以来の伝統的儒教教育機関は廃止され、近代的な各種の学校制度が整備された。1895年には小学校の制度が定められ、学制は尋常科3年、高等科2年ないし3年とし、8歳から15歳までを対象とした[14]。小学校の教員を養成する機関として師範学校が設立され、2年制の本科(のちに4年制)、半年制の速制科から成っていた。また中学校、外国語学校、医学校、商工学校などの諸学校も設立された。成均館は新体制下では経学科が設置されたことで教育機能を維持した。

また官吏の登用制度も改革され、選抜試験の内容に国文、算術、国内政略、外国事情などが組み込まれ、従来の儒教一辺倒の内容から一線を画することとなった。

警察

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詳細は大韓帝国の警察を参照。

軍事

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詳細は大韓帝国軍を参照。

外交

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大韓帝国は、下記の11ヶ国と国交を有していた。ただし、1905年の第二次日韓協約締結後は外交権を喪失したため、日本以外のすべての国と国交を断絶した。

  1.   日本帝国 - 1876年~1910年
  2.   アメリカ合衆国 - 1882年~1905年
  3.   イギリス - 1882年~1905年
  4.   ドイツ帝国 - 1883年~1905年
  5.   イタリア王国 - 1884年~1905年
  6.   ロシア帝国 - 1884年~1905年
  7.   フランス共和国 - 1886年~1905年
  8.   オーストリア=ハンガリー帝国 - 1892年~1905年
  9.   - 1899年~1905年
  10.   ベルギー - 1901年~1905年
  11.   デンマーク - 1902年~1905年

食文化

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加藤政之助の『韓国経営』によれば、親族・郷党の相互扶助・共食の習慣があり、一種の共産主義となっていたため、怠惰を助長する面が存在したものの、飢饉においても乞食が少ないという利点があったとされる[15]

また、官吏(両班)による民への徴収が酷かったため、貯蓄を行うことは危険な行為と見做されており、食べて一生を送るのが安全だとの認識が広まっていたとされる[16]

主食はであった[17]。加藤政之助によれば、料理は中華料理に似るものの、それに至らないものであったとされる[17]。料理は山盛りにして出され、最初に来客や主人が食べ、その残りを息子が食べた。更にはその残りを妻や娘といった家人等が食べ、その残りを下僕(下人数)が食べていた[17][18]

脚注

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注釈

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  1. ^ 皇帝の自称。
  2. ^ ここでの三韓は高麗が統合した後高句麗後百済新羅を指す。高麗は後三国の統合を新羅の三国統一に重ねて「三国を統一した」と考え、三韓統一論を掲げた。 なお、「統一新羅は渤海と並立していた」という史学見解から、北朝鮮では高麗を三韓を統一した最初の国家と見ている。チョン・クボク(정구복)。(2013.4)。韓国の国号考、蔵書閣(우리나라 국호고. 장서각)、29、308-329より。
  3. ^ 李朝時代になると、高麗の統治下になかった北方の平安道咸鏡道が朝鮮領となった他、土着の支配層が存在していた耽羅済州島)も朝鮮王朝の直接支配下に入った。
  4. ^ 存命中の自国の王を指す尊敬語

出典

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  1. ^ 新城道彦「『宮内省省報』を用いた王公族の動向調査:実証的な歴史叙述の基礎作業」『国際交流研究:国際交流学部紀要』第20号、フェリス女学院大学国際交流学部紀要委員会、2018年3月、29-62頁、ISSN 1344-7211NAID 120006458499 
  2. ^ 韓国(かんこく)の意味 - goo国語辞書”. goo辞書. 2022年12月25日閲覧。
  3. ^ a b c d 第2版, ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,百科事典マイペディア,デジタル大辞泉,旺文社世界史事典 三訂版,世界大百科事典. “大韓帝国とは”. コトバンク. 2022年12月25日閲覧。
  4. ^ a b 국호를 대한으로 하고 임금을 황제로 칭한다고 선포하다 (조선왕조실록)
  5. ^ 朝鮮王朝實錄
  6. ^ 矢木毅『韓国・朝鮮史の系譜:民族意識・領域意識の変遷をたどる』塙書房塙選書 111〉、2012年、230頁。ISBN 9784827331110 
  7. ^ 시임 대신과 원임 대신 이하의 관리들을 인견하다 (조선왕조실록)
  8. ^ 小島毅『「歴史」を動かす―東アジアのなかの日本史』亜紀書房、2011年8月2日、45頁。ISBN 4750511153 
  9. ^ a b c 120年前に高宗が日本を避けてロシア公使館に行った「王の道」復元”. 中央日報 - 韓国の最新ニュースを日本語でサービスします. 2022年12月25日閲覧。
  10. ^ 第2版, 日本大百科全書(ニッポニカ),ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,デジタル版 日本人名大辞典+Plus,百科事典マイペディア,世界大百科事典. “李完用とは”. コトバンク. 2022年12月25日閲覧。
  11. ^ a b c d Korean-American relations. 3. The period of diminishing influence, 1896 - 1905 George McAfee McCune 1989
  12. ^ a b 韓国経営 加藤政之助 1905年
  13. ^ a b “<外交は力だ>(1)旧韓末の救国外交「ロシア皇帝に送った高宗親書を初公開」”. 中央日報. (2015年8月12日). オリジナルの2022年8月24日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220824184826/https://japanese.joins.com/JArticle/204362 
  14. ^ 「現代韓国の教育を知る」p. 21 明石書店 2024年
  15. ^ 韓国経営 P.27-29 加藤政之助 1905年8月12日
  16. ^ 韓国経営 P.44 加藤政之助 1905年8月12日
  17. ^ a b c 韓国経営 P.18-19 加藤政之助 1905年8月12日
  18. ^ 朝鮮旅行案内記 P.96 朝鮮総督府鉄道局 1934年9月30日

関連項目

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外部リンク

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先代
  李氏朝鮮
1392年 - 1897年
朝鮮の歴史
  大韓帝国
1897年 - 1910年
次代
  日本統治時代の朝鮮
1910年 - 1945年