司馬允
生涯
編集若年期
編集咸寧3年(277年)8月、濮陽王に封じられた。太康10年(289年)11月、淮南王に改封され、父の武帝の意向により異母兄の秦王司馬柬・楚王司馬瑋と共に封国(淮南)に赴任し、鎮東大将軍・都督揚江二州諸軍事に任じられ、仮節を与えられた。
その後、武帝が没し異母兄の司馬衷(恵帝)が即位すると、永平元年(291年)2月に洛陽に帰還した。同年(元康元年)6月、皇后の賈南風は国政を掌握していた汝南王司馬亮と録尚書事衛瓘を排斥するため、司馬瑋に密詔を与えて彼らの捕縛を命じた。この時、司馬允は司馬瑋の傘下に入り、宮門を制圧した。8月、諸王に出鎮が命じられると、司馬允もまた封国の淮南国に帰還した。
元康9年(299年)、再び洛陽に帰還した。12月、賈南風はかねてより忌み嫌っていた皇太子の司馬遹の罪をでっち上げ、廃立の上で庶民に落とした。この時、司馬遹に代わって司馬允を皇太弟に立てるべきという意見が出たが、これは実行に移されなかった。
永康元年(300年)、賈南風が司馬遹を暗殺し、さらにこれを受けて趙王司馬倫が決起して賈南風を廃位すると、司馬允は驃騎将軍・侍中に任じられ、さらに開府儀同三司の特権と中護軍の指揮権が与えられた。司馬允は沈毅(落ち着いて物事に動じない様)な気性であったので、宿衛の将士はみな敬服したという。
挙兵と死
編集賈氏一派が粛清されると司馬倫が朝政を専断するようになったが、司馬允は司馬倫が分を弁えずに好き勝手振る舞っていることに不平を抱いた。また、司馬倫が側近孫秀と共に異謀(帝位簒奪)を抱いていると知り、その排斥を目論んで秘かに決起兵を養った。これを察知した司馬倫は、司馬允を太尉に昇格させることで中護軍の兵権を奪おうとしたが、司馬允は病と称して辞退した。これを受けて孫秀は御史劉機を派遣し、詔と偽って司馬允の印綬を奪い取った上でその配下を逮捕させ、さらに大逆不敬の罪で司馬允を弾劾した。これを知り激怒した司馬允は、淮南兵と中護軍の兵700人を率いて宮殿に向かい、その途上で「趙王が謀反を起こしたので討伐する。協力する者は左肩を出せ!」と呼び掛け、宮殿に到着するまでに多くの賛同者を得た。しかし、尚書左丞王輿は掖門を閉じたので、宮中に入るのを諦めて東宮にある司馬倫のいる相国府に向かい、これを包囲した。
司馬倫は迎撃に当たったが、司馬允の兵は精鋭揃いであったので、連敗を喫して1000人余りの死者を出した。さらに太子左率陳徽が東宮の兵を集めて軍鼓を鳴らして司馬允に内から呼応すると、承華門の前で合流した。司馬允はここで陣を構えて雨のように弓弩を降らせ、全ての木に数百の矢が刺さるほどの攻勢に打って出た。陳徽の兄である中書令陳準が司馬允を援護しようと思い、恵帝が持つ白虎幡(晋代の皇帝の督戦の節)を手に入れると、司馬督護の伏胤に騎兵400を与えて司馬允の下に白虎幡を届けさせ、司馬倫が逆賊であることを示して戦いを収めさせようと試みた。しかしこの時、伏胤は司馬倫の息子である汝陰王司馬虔から密かに寝返りを持ち掛けられており、かくして伏胤は「淮南王(司馬允)を援護する」という偽の詔書を持って司馬允の陣に赴いた。司馬允は警戒せずに門を開いて軍勢を導き入れたが、下車して詔を受けようとしたところで伏胤に殺された。
これにより司馬允軍は瓦解し、子の秦王司馬郁と漢王司馬迪ともう一人の子も殺害され、数千人が連座して処刑された。司馬倫の兵が敗北した時、司馬倫を捕らえたという噂が広まり、万民は大いに歓喜した。しかし後に司馬允が死んだと聞くと、嘆息しない人はいなかったという。
その後司馬倫が誅殺されると、斉王司馬冏は上表して司馬允について論じ、その死を悼んだ。詔が下り、司馬允は改葬されて殊礼を賜り、司徒を追贈され、淮南忠壮王と諡された。司馬允の子はみな殺害されたので、司馬冏の子の司馬超が淮南王を継いだ。