反正天皇
反正天皇(はんぜいてんのう、仁徳天皇39年? - 反正天皇5年1月23日)は、日本の第18代天皇(在位:反正天皇元年1月2日 - 同5年1月23日)。『日本書紀』での名は瑞歯別天皇。兄弟継承した初の天皇。
反正天皇 | |
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在位期間 反正天皇元年1月2日 - 同5年1月23日 | |
時代 | 伝承の時代(古墳時代) |
先代 | 履中天皇 |
次代 | 允恭天皇 |
陵所 | 百舌鳥耳原北陵 |
漢風諡号 | 反正天皇 |
和風諡号 | 多遅比瑞歯別天皇 |
諱 | 瑞歯別 |
別称 |
多遅比瑞歯別尊 水歯別命 |
父親 | 仁徳天皇 |
母親 | 葛城磐之媛 |
夫人 |
津野媛 弟媛 |
子女 |
香火姫皇女 円皇女 財皇女 高部皇子 |
略歴
編集5世紀前半に実在したと見られる天皇。大鷦鷯天皇(仁徳天皇)の第三皇子。母は葛城襲津彦の女の皇后磐之媛命(いわのひめのみこと)。去来穂別天皇(履中天皇)・住吉仲皇子の同母弟で、雄朝津間稚子宿禰天皇(允恭天皇)の同母兄。仁徳天皇87年、大鷦鷯天皇の崩御後、叛乱を起こした住吉仲皇子をその近習である曽婆訶理(隼人)を利用して誅殺した。履中天皇2年1月4日に立太子(皇太弟)。同6年3月15日に去来穂別天皇が崩御し、翌反正天皇元年1月に即位。兄弟継承はここに始まる。同年8月6日、共に和珥木事の娘である和珥津野媛を皇夫人に、和珥弟媛を妃に立てる。同母兄弟の2天皇と異なり皇族の妻を娶ることはなく、子孫が即位することもなかった。10月に河内丹比を都とする。天下太平であり、何事もなく在位5年。反正天皇5年1月に皇太子を立てないまま崩御。跡を弟の雄朝津間稚子宿禰尊が継いだ(允恭天皇)。
名
編集漢風諡号である「反正天皇」は代々の天皇と同様、奈良時代に淡海三船によって撰進された。
「正しさに反する」のではなく「正しい状態に返す」という意味で、後述の住吉仲皇子誅殺に由来している。
事績
編集誕生
編集淡路宮(不詳、淡路島?)で生まれ容姿美麗であった。生まれながらにして綺麗な歯並びであったので「瑞歯別」の名があるという。『古事記』によれば身長は9尺2寸半(約3.04m)、水歯別命の名は歯の長さが1寸広さ(厚さ)は2分(4ミリ)で上下等しく整っており、歯を褒め称えて「水歯」と名付けられたことによる。
『新撰姓氏録』によれば大鷦鷯天皇(仁徳天皇)の御世に、淡路宮で瑞歯別尊が誕生した際に、色鳴宿禰[注釈 1]が、淡路瑞井水で瑞歯別尊を濯いでいたところ、虎杖の花が湯の中に飛び入ったため、色鳴宿禰は、瑞歯別尊を多治比瑞歯別命とし(虎杖にはタジヒという別名がある[1])、諸国に丹治部を定め、瑞歯別尊の湯沐邑とすることを天神に奏上し、結果色鳴は宰相となり、丹比部を管理したという[2]。
住吉仲皇子誅殺
編集瑞歯別皇子が史書で具体的に登場するのは父の大鷦鷯天皇(仁徳天皇)が崩御した直後である。このとき次兄の住吉仲皇子が自分を長兄の太子去来穂別尊だと偽ってその婚約者である黒媛(葦田宿禰の娘、羽田矢代宿禰の娘の2説あり。履中5年に神の祟りで急死?)と奪う事件が起きた。これを知られた住吉仲皇子は反乱を企てて太子の宮殿に火を放ち、太子は命からがら石上神宮に逃げ延びた。それを知った瑞歯別皇子は太子を助けるためにかけつけたが、命を狙われ疑心暗鬼となった太子からは住吉仲皇子を誅殺してくるまで会えないと言われてしまった。
瑞歯別皇子は住吉仲皇子のいる難波へと向かった。そして住吉仲皇子の側近で隼人の刺領巾(さしひれ)(『古事記』では曽婆訶理(そばかり))へ大臣の位を餌として暗殺を唆した。これを真に受けた刺領巾は厠に入っている住吉仲皇子を矛で刺し殺した(従って本人は直接手を下していない)。任務を成功させたとはいえ、刺領巾(さしひれ)の行為は義にもとるものだった。そこで戻ってきた刺領巾とねぎらいの酒を酌み交わし、その頭が大きな杯で覆われた隙に剣で首を切り落としてしまった。
こうして去来穂別尊(履中天皇)の即位が確定し、瑞歯別皇子自身は太子となった。
即位
編集兄が在位6年で崩御したのち即位。在位5年で崩御。在位中の事績は残っておらず、後継者も指名しないままだった。『古事記』『水鏡』に60歳。『古事記』に従えば、崩御した「丁丑年七月」は西暦437年に相当。生年は逆算して、兄履中天皇より9歳年下の西暦378年に相当するが、定かではない。弟の雄朝津間稚子宿禰皇子が後を継いだ(允恭天皇)。
崩御後は天皇の母である葛城磐之媛の兄弟、あるいは甥にあたる葛城玉田宿禰が5年にわたり殯をしてきたが、雄朝津間稚子宿禰天皇(允恭天皇)に役目を怠ったとして討たれており葛城氏没落のきっかけとなった。
また娘たちは雄朝津間稚子宿禰天皇(允恭天皇)の子の大泊瀬皇子(後の雄略天皇)に求婚されているが、乱暴すぎることを理由に断っている。
系譜
編集10 崇神天皇 | 彦坐王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
豊城入彦命 | 11 垂仁天皇 | 丹波道主命 | 山代之大筒木真若王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
〔上毛野氏〕 〔下毛野氏〕 | 12 景行天皇 | 倭姫命 | 迦邇米雷王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
日本武尊 | 13 成務天皇 | 息長宿禰王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
14 仲哀天皇 | 神功皇后 (仲哀天皇后) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
15 応神天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
16 仁徳天皇 | 菟道稚郎子 | 稚野毛二派皇子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
17 履中天皇 | 18 反正天皇 | 19 允恭天皇 | 意富富杼王 | 忍坂大中姫 (允恭天皇后) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
市辺押磐皇子 | 木梨軽皇子 | 20 安康天皇 | 21 雄略天皇 | 乎非王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
飯豊青皇女 | 24 仁賢天皇 | 23 顕宗天皇 | 22 清寧天皇 | 春日大娘皇女 (仁賢天皇后) | 彦主人王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
手白香皇女 (継体天皇后) | 25 武烈天皇 | 26 継体天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
后妃・皇子女
編集- 皇夫人:津野媛(つのひめ。大宅臣の祖の和珥木事の女)
- 香火姫皇女(かいひめのひめみこ、甲斐郎女)
- 円皇女(つぶらのひめみこ)
- 妃:弟媛(おとひめ。津野媛の妹)
- 財皇女(たからのひめみこ、古事記に財王で男性)
- 高部皇子(たかべのみこ、古事記に多訶弁郎女で女性)
なお、「皇夫人」と称されたのは史上津野媛ただ一人である(「皇太夫人」とは異なる)。皇后を立てなかったのは、成務天皇に次いで史上2人目。
年譜
編集『日本書紀』の伝えるところによれば、以下のとおりである[3]。『日本書紀』に記述される在位を機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。
皇居
編集陵・霊廟
編集陵(みささぎ)の名は百舌鳥耳原北陵(もずのみみはらのきたのみささぎ)。宮内庁により大阪府堺市堺区北三国ヶ丘町2丁にある遺跡名「田出井山古墳」に治定されている。宮内庁上の形式は前方後円。墳丘長148メートルの前方後円墳である。上記とは別に宮内庁から大阪府堺市北区百舌鳥西之町にある遺跡名「土師ニサンザイ古墳」が東百舌鳥陵墓参考地(ひがしもずりょうぼさんこうち)として反正天皇の空墓に想定されている[4]。
伝説
編集考証
編集『宋書』・『梁書』に記される「倭の五王」のうち珍(彌)に比定する説が有力視される[5]が『古事記』『日本書紀』には中国との外交の記録は無い。『宋書』には珍の死と済(允恭天皇か)の即位が書かれておらず、自称の一部(百済などの軍事権)を認められなかった珍が済と改名したとも考えられる。
脚注
編集- ^ http://www.atomigunpofu.jp/ch5-wild%20flowers/itadori.htm
- ^ 『新撰姓氏録』男武額赤命七世孫御殿宿禰男色鳴。大鷦鷯天皇御世。皇子瑞歯別尊。誕生淡路宮之時。淡路瑞井水奉灌御湯。于時虎杖花飛入御湯中。色鳴宿禰称天神寿詞。奉号曰多治比瑞歯別命。乃定丹治部於諸国。為皇子湯沐邑。即以色鳴為宰。令領丹比部戸。因号丹比連遂為氏姓。
- ^ 『日本書紀(二)』岩波書店 ISBN 9784003000427
- ^ 外池昇『事典陵墓参考地 もうひとつの天皇陵』(吉川弘文館、2005年)pp. 49-52。
- ^ 反正天皇(国史).