日記 | 20250223 - 0301

23日 日曜日

 昨夜、ヴィスコンティが撮った『白夜』を観てから、『白夜』についてぐるぐると考え続けている。1957年に公開された軽妙なタッチのこのイタリア映画では、主人公の役どころにスターの階段を急速に駆け上がっていく脂の乗った時期のマストロヤンニが配されていたけれど、果たしてドストエフスキーはこんな軟派なキャラクターを描いていただろうか、あれはもっと陰惨な話ではなかったか。Kindle で見つけたので十数年振りに原作を再読。この頃ずっとぼくの身体を巣食っている孤独の感覚には、映画よりも小説のほうがずっと共振するものがあった。いつにも増してドストエフスキーの描く人物たちにそなわっている情動のようなものを欲しているような気がする。自分は『白夜』の名もなき主人公よりもずっと社会とかかわっていて、彼ほど芯からの孤独を生きているわけでもない。ただ昨日映画館で iPhone が壊れてしまったので、今日はインターネットの接続過多から解放され、自分の身ひとつでこのよく晴れた一日を読書や散歩に集中して静かに過ごすことができた。往来を行き交う人々の表情がよく見える。建築のささやかなディテールに目がいく。広告にある文字を残らず読んでしまう。眼前の現実にそのまま相対しながら生きることの芳醇さ。しかし同時に、何にも繋がることのできない底知れぬ不安。その両義的な感覚をみごとに掴んでいたのがドストエフスキーの『白夜』だったかもしれない。150年近く前のサンクトペテルブルクといまぼくが生きている現実が奇妙な仕方で重ね合りあう感覚に陥る。しかしいま『白夜』の主人公がスマホを持っていたらどうなっていただろう。彼は引きこもってスマホを抱えてタイムラインやショート動画を眺めているだけで世界を知り尽くしたと思えただろうか。

 ソルボンヌ広場のカフェで『白夜』を読み終え、ソーヴィニョンのグラスを飲み干してから、坂を下って 二日連続で「Le Champo」へ。今度はブレッソンが撮った『白夜』を観る。このほうがずっと原作の世界観に近しいし、四夜で女と邂逅を果たす橋のロケ地がポン・ヌフだったことにわが意を得たりと思ったが(ヴィスコンティ版の小さな鉄橋のセットには違和感しかなかった)、作品の中盤でみごとに眠りこんでしまった。ブレッソンの映画は大抵寝てしまう。濱口竜介が『他なる映画と』かどこかで、映画で寝落ちしてしまう自分を肯定し、寝落ちから目ざめたあとに投げ入れられる別様の身体=時間感覚をもって映画と対峙することの豊穣さを語っていたように思うのだが、ぼくのブレッソンの寝落ちはいつもきわめて身体的に不快な体験で、目ざめた直後はぐったりとした身体のもと、感情表現がそぎ落とされた男女のぼそぼそとした会話を聞き届けることになる。いつになったらブレッソンをまともに観れるようになるのか?

 

24日 月曜日

 職場から10キロの米俵を抱えて、修理に預けていたiPhoneを受け取りに行く。二日振りに電源を付けたが大した連絡は来ていなくて、ちょっとがっかりした。ぼくは何を期待していたのだろう。しかし何よりも再び音楽を持ち運ぶことのできる幸福が大きい。金曜日にボブ・ディランの伝記映画を観てから、この数日間は脳内でディランが歌い続けていたのだが、満を辞してヘッドホンをかぶって『Highway 61 Revisited』を聴いた。何度聴いたって「Like a Rolling Stone」は名曲がすぎる。しかし「A Complete Unknown」ねえ。あの映画を観てからボブ・ディランの虜になっている。

 

25日 火曜日

 仕事のピークから徐々に脱け出しつつあるのを実感する。とはいえ遅くに家に帰って、夕飯を平らげて、ベッドに横たわって、死んだ目でYouTubeにあるジェットコースターのPOV動画ばかりを見続けてしまうのは、労働過多の反動なのかもしれない。

 

26日 水曜日

 仕事から帰宅して、荷物を置いてから、「Le Grand Action」でジェシー・アイゼンバーグの『リアル・ペイン』を観る。奇しくも昨晩、どこかに旅行がしたいと思い立ってポーランドのいくつかの街への格安のフライトを調べていたところだった。近所の映画館でちょうどいい時間に掛かっているという理由で観た映画は、奇しくもニューヨーク出身の従兄弟どうしでポーランドに旅行に出かける話。旅に出たいという欲求を満たしてくれるような――というよりも、当面これよりよい旅はできそうにないと打ちのめされるような――旅行につきものの悲喜こもごもを美しく収めた作品。ジェシー・アイゼンバーグが完璧に自分のパブリック・イメージを理解し、そのイメージを裏切らない形でみずから作り上げた主人公像を演じていることも驚異的だが、何よりもキーラン・カルキンの名演が光る。ぼくの周囲にこんな最高なカンパニーはいないので、ポーランド旅行はまた別の機会に譲ることにした。

 ポーランドを舞台にした作品とはいえ、やり過ぎではないかというくらいにショパンピアノ曲が流れ続け、若干辟易とさせられていたのだが、帰宅してジェノベーゼを作りながら、ひと晩中ショパンを聞いた。ポーランドのどこかにある陰気なちいさな町の薄暗い街角でノクターンを聴いている自分を想像してみた。

 

27日 木曜日

 二日連続で「Le Grand Action」。自宅から徒歩1分圏内に映画館が存在するありがたみ。徒歩20分圏内まで拡げたら、たぶん10館以上の映画館がある。いま地球上のほかどこを捜しても、パリ5区・6区ほど映画館が密集している地区はないのではないか。

 ブラディ・コーベット監督の『ブルータリスト』。エイドリアン・ブロディの実母もまた1956年のハンガリー革命で米国に亡命をしたユダヤ人だったという。彼が演じたバウハウス出のユダヤ人建築家の立身出世の物語が、あたかも史実にもとづくかのように錯覚させられてしまうのは、ラズロとおなじような苦難の歴史を生きた人びとがごまんと存在してきたからだろうと思う。この映画の製作陣はかなり確信犯的に、あえてモデルがいるかのような形でフィクションを拵えている。映画を観終わって、ラズロ・トスとはだれなのか、フィラデルフィアの丘の上に建てられたあの建築はどこにあるのかと調べてしまったのはぼくだけではないだろう。検索エンジンを走らせてこれが完全なるフィクションだとわかったとき、やられたと思った。それにしても前半は面白かった。十五分のインターミッションで、周囲の客たちが続々と煙草休憩に出かけるなか一歩も動かずに、ヘブライ語がそえられた家族写真の映るスクリーンを見つめながら、ずっとわくわくしていた。

 

28日 金曜日

 同僚の歓送迎会の終盤、ひどく酔っぱらった職場の最高権力者と言い争いになった。にこやかに進行していたはずが、ぼくか同僚が放った何気ないひと言が彼の神経を逆なでしてしまったらしい。お前はおれの気持がわかるのか? お前もおれが無能だと言いたいのか? 自分の倍以上の年齢のおじさんから大声で怒鳴られる。自分は相手がヒートアップすればするほど冷静になっていく性質だが、当然怒鳴られるのはいい気持はしない。それでも怒りに呑み込まれず、一歩も引かずに毅然と対応できた自分を褒めたい。すべてが終わったあと、組織のトップに立つというのはひどく孤独なんだろうね、と一緒に闘った同僚と苦笑いしながら別れ、ひとり帰路に就いた。

 

1日 土曜日

 あなたの後ろにくっついて改札通っていいかしら。若い女性から職場からの帰路に地下鉄の入口で声を掛けられる。日付が変わったから、先月までのわたしの定期券が失効しちゃって。そう言われてはじめて三月に突入したのだと気づく。

  家に帰ってからニュースを見ると、大西洋を越えた向こうの国でも最高権力者が暴れている。トランプ就任からおよそ一か月半、日々流れてくる信じがたいニュースの数々に感覚が麻痺しはじめていたが、ゼレンスキーとの会談の一部始終を観て、これは大変なことになったぞと思った。数日前に配信された生放送で東浩紀はかつてフランシス・フクヤマの言うところの「歴史の終わり」の終わりだと言っていた。冷戦構造終結以来、左派的なリベラル・デモクラシーの価値観にもとづいて世界は動いてきたが、トランプがその時勢を不可逆的に終わらせ、わたしたちは数十年後の未来がまるで想像できない新たなる時代へと突入したという。

 昼過ぎからルーブル美術館に。さんざん躊躇っていたルーブル美術館の年間会員になってから二度目の訪問。ルーブルの2024年の一年間の総来館者数は870万人を記録したらしい。この土曜日も相変わらずひどく混んでいて、会場ではさまざまな言語が飛び交っている。今日の目当てはチマブーエの企画展。これまでチマブーエのことはまったく知らなかったのだが、彼はジョットの師匠として知られる十三世紀の画家であり、イタリア美術がビザンティンの影響下にあった中世美術からルネサンスに転換するにあたって決定的な役割を果たしたとされる。ヴァザーリの『美術家列伝』やダンテの『神曲』でもすでに伝説的な芸術家として言及されている一方で、現存する作品の点数はきわめて限られており、その生涯はまだ謎に満ちているという。この展覧会ではルーヴル美術館の所蔵する《マエスタ》が数年に及ぶ修復作業を終えて公開せれていた。また数年前に偶然、フランスのとある個人宅の台所で発見され、チマブーエの手による作品と判定されたという《嘲笑されるキリスト》も展示されている。

Cimabue, Maestà, around 1280.

 

Cimabue, Cristo deriso, 1280.

 天使が身につけている衣服のひだ、幼きイエスが左手に握る巻物の潰れ具合。あるいはキリストを囲む男たちの顔立ちや表情のヴァリエーション、そのひとつひとつの立体性。ビザンティン様式の中世美術におけるフレスコ画などの平面的な表象から、ルネサンスにおける遠近法の発明をはじめとするリアリズムの追求に至るまでの転換がよくわかる。ルネサンス以後のイタリア絵画の豊穣を準備した重要な存在であったという説明にも頷ける。8枚のパネルからなっていた鏡合わせの作品から、現存するのはロンドン・ナショナル・ギャラリーの荘厳の聖母像、ニューヨークの笞刑図、ルーヴルの嘲笑されるキリスト像の3点のみ。感動のあまり小さなパネルの前からしばらく動けずにいると、隣りの老婆から声を掛けられる。なんと職場のイベントによく来ている常連のひとりだった。美しいねえ。残りの五点が現存しないようなのが残念ですね。ひょっとして、きみんちの台所にあったりするんじゃないの?

 小ぶりながらも充実の展示で、気づけば二時間も経っていた。中世と近世の狭間。まだ「芸術家」なる概念が前景化しすぎず、人びとは宗教画の文法の枠内でより神に接近しようとしていたわけだが、その試みに心血が注がれていた中世美術は本当におもしろい。アイスランドで撮られた若者の映画を観ながら、ぼくの心はまだ中世に留まっていたかったようで、瞼の裏にはチマブーエの聖母子像の残影が何度も蘇ってきていた。どうして自分はこうも中世に惹かれるのか。

 

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美術鑑賞記録|2024

 2024年の美術鑑賞記録。パリに居を移して二年。一年の展覧会を振り返る作業を行うと、運よく見れたものよりも遥かに見逃してしまったもののほうが多い事実に直面せざるを得ず、今年こそは怠惰に身を任せずにもっと美術館に足を向けようという決意を新たにした。企画展は映画やライブとちがって見逃したときの悔悟の念が大きい。なお、パリの常設展とギャラリーの類は除外。

 印象に深かった企画展は、ニコラ・ド・スタール展(パリ市立近代美術館)、ブランクーシ展(ポンピドゥ・センター)、狂人の肖像展(ルーブル美術館)、カイユボット展(オルセー美術館)、ベルクグリューン展(オランジュリー美術館)。パリの主要美術館が揃い踏み。今年ははじめてヴェネツィアビエンナーレにも足を運んだが、2024年の美術界の動向がどうかといったことはいまだにさっぱり判りません。

 ポンペイ探訪で西洋美術史の別様の可能性を垣間見たのも、ナポリやローマでカラヴァッジョの足跡を辿る小旅行ができたのも大きな体験だったが、一年をつうじて〈美〉の経験としてもっとも強度があったのは、ロルカの詩集を携えて訪れたグラナダアルハンブラ宮殿ではなかったか。ヴェルデケテキエロ、ヴェルデ。緑いろ、わたしの好きな緑いろ。頭のなかでこの美しい韻律のスペイン語の詩句を呟いてみると、必ずしも幸福だったとは言えないアンダルシア旅行の記憶、あのときの感覚がありありと甦ってくる。いい一年だった。

 

企画展|パリ

Bollywood Superstars ボリウッド展(ケ・ブランリ美術館)
Kehinde Wiley. Dédale du pouvoir ケヒンデ・ワイリー展(ケ・ブランリ美術館)
Nicolas de Staël ニコラ・ド・スタール展(パリ市立近代美術館)
Giacometti / Sugimoto : En Scène ジャコメッティ杉本博司展(アンスティチュ・ジャコメッティ
Kenzô Tange – Kengo Kuma. 丹下健三隈研吾(パリ日本文化会館
 
Bijoy Jain / Studio Mumbai. Le souffle de l’architecte ビジョイ・ジェイン/ムンバイ・スタジオ展(カルティエ現代美術財団)
Brancusi ブランクーシ展(ポンピドゥ・センター)
Bande dessinée (1964 - 2024) バンド・デシネ展(ポンピドゥ・センター)
Robert Ryman. Le regard en acte ロバート・ライマン展(オランジュリー美術館)
Yasuhiro Ishimoto. Des lignes et des corps 石元泰博展 (LE BAL)
Surréalisme シュールレアリスム展(ポンピドゥ・センター)
Apichatpong Weerasethakul. Particules de nuit アピチャッポン展(ポンピドゥ・センター)
Barbara Crane バーバラ・クレーン展(ポンピドゥ・センター)
Tokyo, naissance d’une ville moderne 東京―近代版画に見る都市の創成(パリ日本文化会館
Figures du Fou : Du Moyen Âge aux Romantiques 狂人の肖像展(ルーブル美術館
Arte Povera アルテ・ポーヴェラ展(ブルス・ドゥ・コメルス)
Ribera. Ténèbres et lumière リベラ展(プティ・パレ)
Bruno Liljefors. La Suède sauvage リリエフォッシュ展(プティ・パレ)
Caillebotte. Peindre les hommes カイユボット展(オルセー美術館
Le Moment Godard : Projection de « Scénarios » ゴダール上映(オランジュリー美術館)
Heinz Berggruen, un marchand et sa collection ベルクグリューン展(オランジュリー美術館)

Brancusi, Centre Pompidou, Paris, France.

Figures du Fou, Musée du Louvre, Paris, France.

 

企画展|その他

「前衛」写真の精神: なんでもないものの変容松濤美術館 / 東京)
Picasso 1906. La gran transformación ピカソ1906年(レイナソフィア / Madrid, Spain)
Amos Gitai / Yatzhak Rabin ギタイ/ラビン展(レイナソフィア / Madrid, Spain)
Ibon Aranberri - Vista parcial (レイナソフィア / Madrid, Spain)
Ben Shahn, de la no conformidad ベン・シャーン展(レイナソフィア / Madrid, Spain)
Ulla von Brandenburg - Espacios de una secuencia ブランデンブルク展(レイナソフィア / Madrid, Spain)
Expressionists - Kandinsky, Munter and the Blue Rider 表現主義展(テート・モダン / London, UK)
Siza シザ展(グルベンキアン美術館 / Lisboa, Portugal)
Jonas Mekas, Requiem メカス『レクイエム』(San Carlo Cremona / Cremona, Italy)
Sarah Lucas, Sense of Human サラ・ルーカス展(Kunsthalle Mannheim / Mannheim, Germany)

Museu Calouste Gulbenkian, Lisboa, Portugal

 

常設展|その他

CAC マラガ現代美術館 / Málaga, Spain
Depot Boijmans Van Beuningen / Rotterdam, Netherlands
ナポリ考古学博物館 / Napoli, Italy
Gallerie d'Italia / Napoli, Italy
サー・ジョン・ソーンズ美術館 / London, UK
大英博物館 / London, UK
Casa Morandi / Bologna, Italy
ボローニャ近代美術館 / Bologna, Italy
GAMeC / Bergamo, Italy
The Noguchi Museum / New York, USA
Dia Beacon / New York, USA
メトロポリタン美術館 / New York, USA

Pompeii, Italia

Alhambra, Granada, España.

 

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映画鑑賞記録|2024

 2024年に鑑賞した映画のうち、取り立てて気に入った作品を新旧10本ずつ。記録を怠っていたので正確にはよく判らないが、前年よりも鑑賞作品は100本くらい減ったような気がする。仕事上の必要が生じなければ配信で映画を観ることはなくなり、以下に列挙した作品はすべて劇場で鑑賞。新作はどれぐらい観たんだろう。あれもこれも、わりに見逃がしています。秋にフランス全土で組まれていたロジエの特集で観た『メーヌ・オセアン』は人生で掛け替えのない一本になりました。

 映画祭は1月にロッテルダム、2月にベルリン、3月にシネマ・ドゥ・レール(パリ)、6月にボローニャ、8月にヴェネツィア、10月にリュミエール映画祭(リヨン)に参加。どれも弾丸の旅行ばかりだったけれど、積年の念願かなって足を運ぶことのできたボローニャ復元映画祭は噂に聞いていたとおりすばらしく、ただちに再訪を誓いました。ボローニャで会いましょう。

 

新作(ゆるやかな評価順)

ショーン・ベイカー『ANORA アノーラ』(米国)
空音央『HAPPYEND』(日本)
ラウラ・シタレラ『トレンケ・ラウケン』(アルゼンチン)
ニレス・アタラー『Animalia Paradoxa』(チリ)
トッド・ヘインズ『メイ・ディセンバー ゆれる真実』(米国)
Marianna Brennand『Manas』(ブラジル)
ボリス・ロジュキヌ『L’Histoire de Souleymane』(フランス)
ジョナサン・グレイザー 『関心領域』(米国 / 英国 / ポーランド
三宅唱 『夜明けのすべて』(日本)
アラン・ギロディ『ミゼリコルディア』(フランス)

Niles Atallah, Animalia Paradoxa, Chile, 2024.

旧作(初鑑賞作品のみ、年順)

吉村公三郎西陣の姉妹』(日本, 1952)
三隈研次『とむらい師たち』(日本, 1968)
セルゲイ・パラジャーノフざくろの色(Sayat Nova)』(アルメニア, 1969)
ジャック・ロジエオルエットの方へ』(フランス, 1971)
Sebastián Alarcón, Aleksandr Kosarev『Night Over Chile』(ソ連 / チリ, 1977)
シャンタル・アケルマン『アンナの出会い』(ベルギー, 1978)
ジャック・ロジエ『メーヌ・オセアン』(フランス, 1986)
ポール・バーホーベンロボコップ』(米国, 1987)
周防正行Shall We ダンス?』(日本, 1996)
ニコラ・フィリベールすべての些細な事柄』(フランス, 1997)

Jaques Rozier, Maine Océan, France, 1986.

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日記 | 20240831 - 0902

31日 土曜日

 ヴェネツィア四日目。連日往復で都合三時間のバスと船の移動時間というのはなかなか身に堪えるが、船からヴェネツィアの景色を眺めているだけで心が満たされてゆく。大運河に面する白大理石が眩しく光るレデントーレ教会。潟の先に立つアイコニックなサン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂。いずれもルネサンス期を代表するパラディオによる建築である。やがてサンマルコ広場のそばに立つドゥカーレ宮殿が見えてくる。他のゴチック様式とは全く似ていない唯一無二の華美な雰囲気のファサードは何度も見てもうっとりとしてしまう。かつて栄華を誇ったヴェネツィア共和国の美はまずもって建築に凝縮されている。

 ジェトロが主催する日本映画シンポに出席。日本人にかぎらず、仏配給会社の社長やウディネ映画祭のプログラマー、国際共作の経験のあるプロデューサーらが集められていたが、いかにもお役所めいた「日本映画の魅力とは」という議題設定のためか、これといって興味深い話は聞けず。やたらと日本人が好んで用いる「魅力」という言葉は、英語にもフランス語にも訳すのが困難で、というより欧米諸語ではあまり用いられない言いかたで、わたしたち日本人自身もこの語がさし示す内実に深く考えが及んでいないのではと思う。運営にかかわる元同僚などと挨拶をしてからそそくさと会場を抜け、急いでオリゾンティ部門のブラジル映画『Manas』上映に。Marianna Brennand という女性監督の長編フィクション一本めというが、これがかなりの力作だった。資本主義も教育も十分に行き届いていないアマゾンの熱帯雨林の奥地で、ひと知れず年端のいかない女子たちが耐え忍ぶ父からの性暴力。直接的な描写は省略されているのだが、そのことでかえって彼女たちの受難に想像が膨らんで苦しい。

Marianna Brennand, MANAS, 2024

 そのままアモス・ギタイ監督による『Why War』。1932年のアイシュタインとフロイトの往復書簡をもとにした映像作品。イスラエルによる民族浄化エスカレートしてゆく状況下で、イスラエル出身の巨匠がどうして戦争が、とあえて世に問うことの重さ。わたしは恐る恐る劇場の隅っこに着席した。ユダヤ系の出自をもつマチュー・アマルリックとミーシャ・レスコが百年前の偉大な思想家に扮し、議論を展開していく。しかしそうして弄される韜晦な言辞の数々は、果たしていかほどの現実の暴力を止めるのに役に立つだろうか、という思いが拭えない。すべてを理解したとは到底言えないし、バイアスが掛かっていることは承知のうえで、わたしにはイスラエル人による自己弁護としか見えず、暗澹たる気持で劇場を後にした。ドイツ政府が親イスラエルの方針を強要したベルリン映画祭や、あらかじめ問題を回避したカンヌ映画祭とくらべ、ヴェネツィア映画祭はイスラエルパレスチナ問題というアクチュアリティに対峙しようとする意志は伝わるのだが、この作品をセレクションに組み入れたからと言って免罪符になるわけではない。記者会見や質疑応答ではどのような言葉が交わされたのかが、気になる。

 リド島からリアルト島に戻って、サンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂へ。ここにはティツィアーノヴェネツィア最大の画家として名をあげる契機となった《聖母被昇天》が飾られている。境内に一歩足を踏み入れた瞬間、わたしは思わず息を呑んだ。絵画は聖堂入口から真っすぐ伸びた先にある奥の祭壇に掲げられている。まるでこの空間の全てが、この絵のために存在していると錯覚しかねないほどの強烈な説得力。実際の順序は逆で、ティツィアーノがこの教会にあわせて描いた大判の作品だというが、主題にすぐれて呼応する天空に引っ張り上げていくようなダイナミックな躍動感。ルネサンス以後のアカデミズム絵画を知る者にとっては退屈かもしれないが、16世紀初頭の作品とは信じられないほど完璧な構図で、ティツィアーノならではの鮮やかな色づかい、柔らかな筆致。まさに傑作というほかないと思う。

Tiziano, Assunta, 1516-1518

 他に来場者はほとんどおらず、閉館まで一時間ほど堪能。この隣の区画に掲げられていたベリーニの聖母子像もすばらしく、深い感動に囚われたまま、ここにはティツィアーノの墓もあると聞いたがと神父に話しかけると、彼は作業を取りやめて親切に案内をしてくれた。さぞかし立派な墓を想像していたが、床に敷き詰められた大理石の一枚に控えめにその名が記載されているだけで、知らなければ気づかないまま通り過ぎてしまうような墓だった。これくらいの墓がいい。自分の残した傑作のかたわらで、ほとんどの人に気づかれないまま静かに眠るなんて、芸術家としてもっとも望ましい死後の在り方ではないか。

 待ち合わせをしていたリストランテへ。映画祭に参加するとついつい食事が疎かになってしまう。せっかくのヴェネツィアというのに連日ピザを齧ってばかりいたのだが、今回はじめてたらふく郷土料理を食べ、ついつい羽目をはずして飲みすぎてしまった。イカスミのパスタがおいしすぎる。充電の切れた iPhone を握りしめて帰路に着いたはずだが、どうやって帰ったのかすらあまり記憶に残っていない。

 

9月1日 日曜日

 二日酔いに苦しみながら、船に揺られて今日も映画祭会場へ。ウォルター・サレスの『I'm Still Here』、マルコ・べロッキオの短編『May I say? Chapter two』、アリーチェ・ロルヴァケルとJRによる共作『Allégorie citadine』、モンゴルの若き監督による『To Kill A Mongolian Horse』と続けて四作品を鑑賞。ベロッキオとロルヴァケルという敬愛してやまない二人の世代の異なるイタリア人監督の抱擁を目撃できただけでうれしい。ほかにも妙にさわがしいと思ったらケイト・ブランシェットがレットカーペットに現れたり、目の前でジュリアン・ムーアがお喋りしていたり、ヴェネツィア映画祭ならではのセレブにお目にかかったりした。さすがに本物のティルダ・スウィントンを見たときは少しテンションが高まった。

 リド島からリアルト島にわたる連絡船のなかで、滞在中に少しずつ読み進めていた宮下規久朗による岩波新書ヴェネツィア 美の都の一千年』のあとがきに到達する。きわめて私的なエッセイで、そこには癌で二十二歳の若さで亡くなってしまった著者の実娘との思い出が淡々と綴られていた。生前イタリアに飽き飽きしていた彼女は、ヴェネツィアだけはまた行きたいと漏らしていたという。しかしその夢もかなわず、あっという間に逝ってしまった。

 

ヴェネツィアという町は、幸福な者にはその幸福を、不幸な者にはその不幸を増幅させる町であるとツルゲーネフは書いている。「すでに自分の生涯を生きてしまった人、人生に打ち砕かれた人、そうした人はヴェネツィアを訪れても無意味である」と。(…)私はもう二度とヴェネツィアに行くことはないだろう。美術史家として、この街の美術は十分に見尽くしたという気持ちもあるが、そのときどきの楽しかった思い出を温存したいと思うからである。やはりヴェネツィアは人生の喜怒哀楽の試金石であり、追憶の中でこそいっそう輝く町であるにちがいない。本書は、私のこの町への愛と惜別の証として書いた。

 Kindleから顔を上げると、わたしの乗っていた船はサン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂の前を通過するところだった。著者はここから海に娘の遺骨を撒いたという。わたしは名前も顔も知らない、夭折した著書の娘の冥福を静かに祈った。連絡船のうえから夕陽にきらめくヴェネツィアの街を眺めながら、ここは確かに華美で優雅な土地なのだが、また同時にメランコリアもどこかに秘めているように思う。まるで誰かの夢の跡のような。

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2日 月曜日
 昨晩、ダミアーノとアンナがヴェネツィアに戻ってきた。アンナの姉の出産に立ち会うために二人して休暇を取って里帰りをしていたらしい。わたしの故郷はね、トマト缶の工場がえんえんと立ち並ぶひどく醜い土地なのよ。まあ、マルゲラも大概だけどね、とアンナは笑ってみせる。二頭の白いゴールデンレトリバーをリードに繋いで、よく晴れたマルゲラを3人と2頭で散歩。夜はヘロイン中毒者とおぼしき者たちが公園に屯し、薬物の売人が闊歩しているような地区だが、まだ涼しさの残る今朝はきわめて牧歌的な風景が広がっていた。カフェでエスプレッソを飲み、パンを頬張りながら、二人にこのような日常があることを羨ましく思った。

 荷物をまとめて、二人とは別れを告げ、ヴェネツィアビエンナーレの会場へ。今年はサンパウロの現代美術館のキュレーターが「どこにだって異邦人」というテーマを掲げていたが、そのビエンナーレの顔となる展覧会は素人目に見ても纏まりに欠いた出来で、何がしたいのか判然としなかった。相変わらずの炎天下のなかで、三か月前の訪問時に気に入ったいくつかの国別のパビリオンと、前回回ることのできなかったアルセナーレの会場を足早に回る。今回も到底見尽くすことはできなかったが、二度の訪問をつうじてわたしの気に入ったパビリオンは、Wael Shawky が19世紀末に勃発したウラービーの反乱をオペラに仕立て上げたエジプト館、現代における労働者をモランディを髣髴とさせる色彩の油彩で描くȘerban Savuのキャンバスを壁中にめぐらせたルーマニア館、ケソン島最大の霊山といわれるバナハオ山の自然や生態系を独特のアプローチで再現した Mark Salvatus のフィリピン館、ヴェネツィアの由緒正しき建物に草木を持ちこんでクレオールの庭に変身させたポルトガル館など。今年の日本館の毛利悠子の作品もよかったと思う。吉阪隆正によるユニークな建築ともよく合っていた。ちなみにロシア館はボリビア館にスクワッドされ、イスラエル館は停戦まで閉鎖。

 最後にリド島の会場へ。今回のヴェネツィア最後の作品は、空音央『HAPPYEND』。『SUPER HAPPY FOREVER』からはじまったわたしの映画祭はハッピーセット関東大震災から101年と1日の月日が経過した日に世界ではじめてお披露目となった本作は、ここ数年の日本映画に風穴を開けるようなものでありながら、80年代の日本の青春映画(『台風クラブ』や『家族ゲーム』)を想起させるような、どこか懐かしさをたたえた傑作だったと思う。わたしは前日に音央くんと立ち話をして、親パレスチナの運動に身を投じている実感や苦悩について聞いていたのだが、そうした姿勢とも作品が地続きになっていたことに大いに感化された。クーフィーヤを巻き、胸にパレスチナ国旗のバッジを付け、流暢な英語で質疑に答えている音央くんたちの姿はどこまでも眩しかった。

 飛行機の時間が迫っていたので、質疑応答は中座してマルコポーロ空港へ。空港の土産屋でパッケリを購入。数あるイタリアパスタのなかでもパッケリが好きで、パリでも探していたのだが見当たらないので、イタリアに来るたびに買うことにしている。そのパッケリを片手に喫煙所にいると、隣のイタリア人から話しかけられる。失礼ですけど、あなたはこのパッケリになんのソースを合わせるつもりですか。突然の質問に驚きながら、おずおずとトマトソースでしょうかと答えると、彼女はよくわかっているじゃないと深く頷いて、トマトソースが1番合うから完全に正しいとお墨付きをもらった。彼女もロンドンに住んでいて、パッケリがなかなか手に入らず苦労しているのだという。

 パリ行きの飛行機に搭乗すると、わたしの席を挟んで両隣の若い男女が身を乗り出して会話をしていたので、席を交換する。どうやら他人同士だったようなのだが、フライト中も二人の会話は弾みに弾み、やがて女が男の膝に足を乗せた。どういう展開だとドギマギしながら聞き耳を立てると、二人は過去の恋愛遍歴やそれぞれの恋愛観を小声で語り合っている。なんてロマンチックな出会い。結婚式には寛大にも席交換を申し出たわたしも功労者として招待してほしい。

 シャルル・ド・ゴール空港に到着したのはすでに夜遅く。パリ市内に向かうB線のプラットフォームを歩いていると、車内には見覚えのある顔。わたしは驚いて声をかけると、なんと高校の同級生だった。最後に会ったのは下手すれば十年近く前で、近況すらも知らなかったのだが、彼も半年前からパリに住み、フリーランスでファッショ関係の仕事をしているという。市内の駅でわかれて、再会を誓う。ヴェネツィアからパリにもどる旅程で思いがけぬ体験がつづいた。これは今回のヴェネツィア行きの体験が授けてくれた縁だと思って、ハッピーな気持ちで眠りについた。

日記 | 20240828 - 0830

28日 水曜日
 三か月振りにヴェネツィアへ。ボーヴェ空港に就航しているライアンエアー社のヴェネツィアまでの片道航空券を18ユーロで購入していたが、パリ郊外からボーヴェ空港までのバス運賃もまた18ユーロだった。サンドニ駅前から北西に80キロ離れた空港までの連絡バスの所要時間が一時間半。パリから1,000キロ離れたヴェネツィアまでのフライト時間も一時間半。飛行機とバスで運賃も時間もほとんど変わらないという事実にたじろぐ。ウエルベックが『地図と領土』で指摘していたように、LCCの台頭によってヨーロッパの地図は書き換えられてしまったと思う。LCCが就航しているか次第で、その都市間の心理的な距離は格段に異なるのだ。トレヴィーゾ空港に到着して、そのままメストレ行きのバスに滑りこむ。車窓の外にはこのバスから過去に何度も目の当たりにしたトウモロコシ畑が変わらず広がっていて、わたしは無性にうれしくなってくる。

 今回のヴェネツィア行きの目的は映画祭だった。これがはじめての参加となる。下宿先のダミアーノはまたしてもヴェネツィアを留守にしていたのだが、好きなようにアパートを使ってくれて構わないと寛大な申し出をしてくれていた。わたしは炎天下のなか、バスの停留所からマルゲラの一角に聳え立つ巨大な水道塔を目じるしに歩みを進めていく。アパートの鍵が預けられた向かいのカフェに赴くと、店の片隅で老婆がひとりで新聞を読んでいた。あなたがエリザですか。覚束ないイタリア語で軽く立ち話をして、無事に鍵を受け取った。
 南アジア出身の労働者で溢れ返ったバスに乗り込んでリアルト本島へ。ローマ広場に到着した途端、先ほどの労働者はたちまち観光客の雑踏のなかに消えていった。わたしも船着場に赴いて、そこから船に乗ってリド島にわたった。ヴェネツィアの島々が点在する潟とアドリア海を隔てるように細長く伸びるリド島は、二十世紀の頭まで外敵からヴェネツィアへの侵入を防ぐための軍事拠点として活用され、いまのような高級リゾート地として勃興したのはここ百年ほどのことのようだ。ヴェネツィアの島々で唯一自動車で走ることができ、リゾート地よろしくあちこちに高級車が停まっている。

 念願叶って参加した映画祭一本めの作品は、ヴェニス・デイズ部門のオープニング作品として選出された『SUPER HAPPY FORVER』。開演ぎりぎりに小走りで到着した会場の入口で五十嵐監督が待ってくれていて、ほとんど言葉を交わす間もないままチケットを受け取って会場へ。大入りの満員からの万雷の拍手でチームを迎え入れて上映が始まると、はじめから海のショット。大きなスクリーンに映る伊豆の海の映像が、ついさっき船の上から目の当たりにしたばかりのヴェネツィアの海の記憶と重なり合っていく。過去に生きた喪失の記憶が数珠つなぎに呼び覚まされていく、期待にたがわぬ美しい作品だった。この作品のお披露目するのにヴェネツィアほど相応しい土地はほかになかっただろうと思う。上映会場で、思いがけず友人知人と再会を果たし、わたしはワールドプレミアを終えたばかりの五十嵐組の面々に引っ付いて、海に面したリストランテで上映の成功をねぎらった。隣の席に座っていたダミアン・マニヴェルの語った五十嵐監督との協働作業をめぐる話からは二人の信頼関係の強さを感じられた。別々の土地で生まれ育った映画監督どうしが、互いの感性に信頼を置き、こうして一緒に作品づくりに一緒に取り組めるというのは、なんと素晴らしいことだろう。みなで海の向こうに沈んでいく夕陽を見送って、それから最終の船便までオレンジ色のスプリッツァをしこたま呑んで、ほろ酔い気分でまた一時間半ほど掛けて水道塔のふもとにあるアパートに帰った。

 

29日 木曜日
 ヴェネツィア二日目。今朝もマルゲラからリド島まで、バスと船を乗り継ぐ一時間半の旅。連絡船ではわたしの目の前でおばさんが小さな女の子にひどく嗄れた声で絵本を読み聞かせていた。女の子は次から次へと物語を欲し、おばさんは嫌な顔ひとつせず、何冊も絵本が詰め込まれたリュックから一冊ずつ取り出しては、もう一方の手で読み終わった絵本を日除けがわりに掲げていた。それにしても暑い。一年前の7月に訪れたときもヴェネツィアは酷暑で、サンマルコ大聖堂の境内であやうく熱中症で倒れかけたのだが、そのときと同等の暑さである。たまたま言葉を交わしたヴェネツィアのジャーナリストたちも、ここ数日は今年いちばんの暑さだと語る。海に囲まれているせいもあって、日本の夏のようなモワッとした湿気。映画館のなかが一番涼しいから映画を観るしかないよねと若きジャーナリストたちは笑ってみせる。

 アクレディテーションの申請に手違いがあって、事務局で小一時間ほど足止めを食らう。最終的に向こうの手落ちであったことが発覚し、なんとかバッジを回収。わざわざ仕事の休暇を取って意気揚々と映画祭にやってきたのに、あやうく何もできずに帰る羽目になるところだった。気を取り直して映画を観はじめる。オリゾンティ部門に選出されたネパール映画スウェーデン映画の二本を続けて観たのだが、まったくもって響かず。厳しいなあと思いながら近くのパン屋のピザをいそいで頬張ってから、ブラジルのロベルト・サントス監督が1965年に撮った『A Hora e a vez de Augusto Matraga』を観る。これはおもしろい。どういうわけかキン・フーの『残酷ドラゴン 血斗竜門の宿』を思い出した。このブラジル映画史に残る奇作の二年後に撮られた武侠映画である。いつかあらためて比較してみたい。

 上映終わりでカミーユと合流。彼女もまたヴェネツィア映画祭に遊びに来ていたが、つい昨日まであたらしい脚本の執筆のためにアパートに缶詰になっていて、まだ作品は一本も見ていないという。小腹を空かせたわたしたちはリアルト本島に戻って店を探し回ったのだが、すでに22時を回っていてもうどこの店も片づけをはじめていた。一軒だけ肉料理なら出せるというリストランテがあったが、カミーユベジタリアンなのもあって断念。二人して何となく気分が落ちて、何も食べずにそのまま解散。わたしのiPhoneのバッテリーはすでに切れていて、迷路のようなリアルトの入り組んだ小径を勘にたよってうろうろと歩き回ったが、一向に船着場にたどり着かなかった。日中は観光客でごった返すヴェネツィアも、夜になると別の顔を見せはじめる。なんだか『ベニスに死す』の気分。

 

30日 金曜日
 ヴェネツィア三日目。朝の上映は9時台から組まれているが、リド島までの出勤に一時間半を要するので、当然のように間に合わない。11時を回る頃にはすでに太陽が猛威を奮い始め、わたしは汗をかきながら巨大な仮設体育館のような劇場に到着。1,000席近くが埋まっているのではないかという客席に空席を見つけ、パブロ・ララインの『Maria』。アンジェリーナ・ジョリーマリア・カラスを演じた伝記映画なのだが、主演のハリウッド女優はさておき、その語り口に妙にノレなくて、半分ほど見たところで上映を中座してしまった。

 隣のカフェで木立の日陰でまったりしていると、ベルリンで知己を得た王申とばったり再会。このところ彼が制作を進めているドキュメンタリーの話を教えてもらった。シエナに何度も滞在して、華僑のコミュニティに分け入りながら、並行してイタリア人と南アジア系移民の三つのコミュニティを往復してカメラを回し続けている。それぞれは同じ土地で生活をしているにもかかわらず、まったく交流がなく、まるでパラレルワールドを往来している気分だと言う。わたしもパリで暮らしていて、いまの時代は異国で暮らしていようと、インターネット到来以前に比して母国語に閉じこもっても容易に生活が送れてしまうと感じる。わたしたちがお喋りに耽っていると、王申の知り合いの中国人の監督とプロデューサーが現れた。『毒药猫』という短編のWPを終えたばかりだという。中国ではますます自由に映画が撮りづらくなっていて、今回のヴェネツィアに選出された作品で外国資本が入っていない中国作品は、彼の短編をのぞくと他に無いのではないかと言っていた。それにしてもいまの中国の映画人たちはみな若く流暢に英語を操り、積極的に外のコミュニティと交わってゆく優秀な人たちばかりで、本当にすごいといつも思わされる。

 カレッジ・シネマ部門の『The Fisherman』というガーナの作品を観にいくが、ほとんど二時間拷問のような作品。意気消沈しながら黒沢清『Cloud』の関係者向け上映へ。公式上映は24時から上映というとち狂ったプログラムで、遠方に下宿するわたしは当然観ることができなかったが、槻舘さんに紹介してもらったフランス人の映画監督が黒沢の代わりに昼寝をするというのでチケットを運よく譲り受けたのだった。積まれた段ボールは運ばれなければならず、仕入れられた銃器は発射されなければならない。そんな映画の基本のキに従事しさえすれば、あとはなんだってありなのだ。黒沢清における悪意の伝染という主題が現代のインターネットを媒介にして回帰する。とてもおもしろかった。隣に座っていたおっさんが上映直後にイタリア語訛りの英語で話しかけてきて、「傑作だ! わしは説教くさい映画が嫌いなんだ! これくらい意味不明なのがいいのだ!」とわたしの顔に興奮気味に唾を撒き散らして足早に去っていった。息がくさい。

 この日は最後にアイトル・アレギとジョン・ガラーニョの共同監督による『Marco』。これもおもしろい。スペインでホロコーストの生存者のスポークスマンとして名の知られたエンリケ・マルコの嘘が、老年に差し掛かって白日のもとに晒されてゆく。彼は戦後の数十年ものあいだ、大衆はおろか、家族さえも生存者だと騙り続けて名を成した実在の人物であるらしい。バルガス=リョサがモデルとなった人物について「悍ましくもブリリアント」と評したようだが、マジックリアリズムの巨匠をそう言わせしめるだけの魅力に満ちた人間像が、映画のなかでも見事に立ち上がってゆく。現代における英雄とは被害者であるとはじめに喝破したのは誰だったか。彼はホロコーストという人類史上でも最悪の悲劇の被害者という「称号」を手に入れたが、そのまま逃げ切ることはかなわなかった。二十世紀の産み出した前代未聞の嘘つきのポートレートである。

 今日は3.5本の映画を観て帰路に就く。リアルト本島からマルゲラに戻っていくバスの車内は、この日も半数以上が南インド系の顔立ちの人たちで溢れ返っていた。仕事終わりで疲れているのか、彼らは浮かない顔でずっとスマホに齧り付いて、タミル語なのか、シンハラ語なのか、丸っこい文字列が並ぶYouTubeを凝視していた。この人たちにとってヴェネツィア映画祭も何もかも、かぎりなく縁遠い場所なのかもしれないと思う。当たり前のことだが、同じ土地で、同じバスに乗っていても、ひとりひとりがまったく異なる現実を生きている。わたしは彼らにとってどんな人に見えているだろうか。そもそも視界にすら入っていないかもしれない。

日記 | 20240819 - 0827

0819

 アジアスーパーで買った日清UFO焼きそば。蓋に書かれた「やけどにご注意ください!」という吹き出しを見て、どういうわけか日本への郷愁が込み上げてきた。お節介でしかない異様なまでの親切さ。焼きそばの湯切り口の仕組みなども精巧につくられていて、日本製品は徹底してユーザー目線で商品開発がなされている。フランスの製品なら、たいていの場合はきわめて簡素に数行の手順が書かれているだけで、ラベルが剥がれづらかったりとか、日本基準で見たら商品にならないものばかり。逆に日本のお節介にうんざりすることはあっても、いま焼きそばを啜っているこの瞬間は、なんだかやたらと身に沁みた。UFOではなく、ペヤングが食べたいのだが、まだパリで見かけてない。

 

0820

 イラン近代史をめぐる二つのドキュメンタリーを観る。1978年から勃発したイラン革命は、親米路線を棄てイスラム回帰の方向を打ち出した。敬虔なムスリムの男性たちが西欧社会から輸入される風習や文化を快く思わなかったことは想像できるが、ドキュメンタリーの映像には大勢の女性や若者もが街を練り歩いて革命を支持する様子が映っていた。欧米由来のロックンロールを聴いて、西洋風のおしゃれを愉しんでいた若者たちがイスラム法復権した未来を望んだのだろうか。どうしてあれほどイラン革命が人民の支持を勝ち得ていたのか。いまいちピンと来ないのだが、これもぼくが欧米の価値観しか尺度を持ち合わせていないからだろう。国際社会で問題視されているイラン政権の近年の振る舞いも、もう少しイラン革命の理解を深めるとわかるような気がする。ムスリム世界は直感的にわからないことだらけだ。だから欧米社会は過度に彼らを恐れるのだ。

 

0821

 路地の電柱に、ペットのキジバドが行方不明という張り紙が出ていた。しかも名前は「poulpée」で、日本語でいったら「タコッぺ」みたいな感じかなあ。どこにでもいる鳩を飼って蛸と名づける飼い主、ずいぶん変わった人がいるものだ。しかしキジバトなんて絶対に見つからないだろうと思いながら、インターネットで調べてみるとpoulpéeさんは発見されたという記事が出ていた。よかったね。

www.leparisien.fr

 

0822

 メッセンジャー・サービスの種類が多すぎる。そこにストレスを感じている。友人知人との個人的なやり取りのために、LINE、WhatsApp、Facebook メッセンジャーInstagram ダイレクトメッセージ、iMessage / SMSに、Gmailと、最近は五種類のプラットフォームを使いわけているが、このところはメッセージを溜めてばかりでろくに返信を書けていない。とくにボイスメッセージを送ってくる人たちが多いのも心理的に負担になっているように感じる。日本と海外(どこまでを指す?)で、ボイスメッセージについては明らかに文化のちがいがある。文字の送受信に慣れている身としては、音声ファイルが送られてくると若干の恐怖心めいたものを感じる。しばしば聞くまでに時間がかかる。電話だったら全然そんなことないのに。

 いまの時代に生きる人たちは、多かれ少なかれ、さまざまなプラットフォームを行き来しているのだろうと思う。同じ相手と別々のプラットフォームで連絡を取りあうこともままある。わたしたちのもつ人間関係の多層性がプラットフォームの複数性として現象しているだけとも言えるし、自分自身、この複数性をもっとうまく乗りこなしていた時期もあったと思う。人間関係に必然的に掛かる負荷を、テクノロジーの問題にすり替えようとしているだけかもしれない。返信せずにメッセージを溜め込み過ぎてしまうのも、つねにうっすらとした負い目の感覚があって精神衛生上好ましくない。一念発起して溜まりに溜まったメッセージをひとつずつ返していった。

 

0823

 長いバカンスを終えて職場に復帰した同僚が、これまで見たことのないほどにこやかで晴れ晴れとした表情をしていた。この夏はイビサのとなりの島にある友人の別荘で厄介になり、毎日海で泳いでいたらしい。確かにずいぶんよく肌が焼けていた。人の機嫌が周囲に与える影響は計り知れず、こちらまで気分が明るくなってくる。昨夜、長い時間をかけて、メッセージの負債を返済し切ったと言うのもあるし、首位広島との三連戦の初戦に登板した髙橋遥人が前回に続いて圧巻の投球を見せて二勝目という明るいニュースのおかげもある。自分もつねにゴキゲンでいたいものだ。

 

0824

 黒澤明の6作品のデジタル修復作がフランス全土でCarlotta Filmsで劇場公開中。MK2 Bibliothèqueで『生きる』と『どん底』をつづけて鑑賞。土曜日とはいえヴァカンス真盛りの劇場で、200席くらいの客席が半分近く埋まっている。若年層の割合も高い。黒澤明作品を見たことのある人口の割合は日本よりフランスのほうがぜんぜん高いんじゃないか、と同じ回を観に来ていたダフネと話した。フランス人は学校の映画教育プログラムで黒澤明を見させられるというし。

 夜、MK2 Odeon で『化け猫あんず』を鑑賞。映画館の外壁には、先週から封切られている『ほつれる』と『化け猫あんず』のポスターが並んでいて、パリでの日本映画の普及ぶりにあらためて驚かされる。CNCによる年間レポートによれば、2023年の一年を通じてフランスで劇場公開された新作 800作品のうち、フランス映画が半数程度を占め、諸外国ではアメリカ映画(86)、インド映画(32)に続いて、日本映画(28)は国別では三位。この数字には旧作は含まれていないのだが、クラシックも勘案したらアメリカ映画に次ぐ存在感があるといっても過言ではないだろう。



0825

 1944年のパリ解放から今日で八十年。ラジオや新聞でもおおきく取り上げられていた。1944年8月19日、レジスタンスによる蜂起運動が開始。そのわずか6日後の25日にドイツ軍は撤退し、四年にわたってナチスに占領されていたパリが解放された。いつものカフェに置かれていた Parisien 誌にも、当時を知る者たちの証言や歴史学者によるコラムが載っている。四年振りの自由に歓喜し祝杯をあげるパリ市民たち。この夏のパリ五輪の熱狂と比較するような論調も見られた。戦勝国と戦敗国では、終戦をめぐる集合記憶はまったく異なるのだと、当たり前のことをあらためて痛感する。偶然にもお盆と終戦が重なったことで日本人にとっての「八月」は特別な意味をもってしまった、と千葉雅也もどこかで語っていた。これまでもこれからも、自分の文学的主題として向き合い続けるんだろうと思う、と。

 

0826

 新婚夫婦を囲んでガレットを食べてから、近くのクラフトビール屋になだれ込む。その場にいたひとりから、彼女が予告もなくプロポーズを受けたときの話を聞いた。あるとき松葉杖をついて包帯ぐるぐるになった恋人が突然自宅に現れ、開口一番に結婚を申し込まれたのだという。まったく状況がわからずに驚いていると、その恋人は前夜に海難事故に遭い、もう駄目かと観念したときにつきあっている彼女のことが頭に過ぎった。救助によって九死に一生を得て、病院で緊急処置を受けて、松葉杖をついたまま退院し、その足で何も知らない彼女のもとを訪れたということらしい。人生ってすごい。

 

0827

 職場の近辺でよく見かける一風変わった男に道ばたで突然声を掛けられる。えらく顔面蒼白な、中肉中背のひげを生やした白人の男で、擦り切れてぼろぼろの衣服を着ている。その異様なまでの存在感に注意を惹かれたことは何度かあったのだが、この日はこの男からひとつ頼みごとを聞いてくれないかと話しかけられ、狼狽えるほど驚いた。スマホYouTubeを開いて、とあるチャンネルの最新の動画を見せてくれ、というのである。疑心暗鬼になりながらも、言われるがままにそのチャンネルを開くと、キリスト教の神父が説法をしているビデオが並んでいた。今日のビデオのタイトルは「マタイによる福音書 5:27-30」。1時間以上あるビデオだったが、男はタイトルだけ確かめると、小さな声で例を言って去っていった。狐につままれたような気持で男の後ろ姿を見つめる。彼はいったいどこから来て、どこへ行こうとしているのか。路上生活者のような身なりなのだが、どこか人間ならざる雰囲気も醸し出している。ひょっとして彼は聖者なのではないか。現代にラザロが復活したらあんな似姿をしているのではないか。そんな非現実的な想像が膨らんでいく。

 家に帰ってからマタイの当該の箇所を調べてみると、次のようにあった。あの男もまたあのあと聖書を手に取って、おなじ箇所を読んだのだろうと思う。

「姦淫するな」と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入られない方が、あなたにとって益である。

日記 | 20240812 - 0818

20240812

 このところ気分の浮き沈みが烈しい。仕事にさっぱり身が入らず、オフィスでうつ病を克服した体験記を集めたウェブサイトを片っ端から読み耽る。なによりも規則正しい生活、睡眠を十分に摂ることが重要なのだとどのサイトにも書いてあるが、日記を書くのもひとつの処方箋かもしれない。今日のパリはこの夏いちばんの暑さだ。暑さのあまり体調が優れないだけだろうか。

 夜にポルトガル語オンライン講座。さんざんサボろうかと逡巡したが、サボったところでさらに気分が落ち込むだけなので、なんとか Zoom リンクを立ちあげた。この夏、フランス人に交じってブラジル・ポルトガル語講座を週3で受けているのだが、相変わらずの劣等生である。授業を終え、家でじっとしていたって仕方がないとさらに奮い立ち、昨日買ったばかりの水着やタオルを乱暴に鞄に放り込み、大家から勧めてもらっていた近所にあるポントワーズ通りのプールに足を向けた。歴史的建造物に指定されたアール・デコのユニークな建築のスポーツ施設で、たいそうな造りなのだが、自分がここに通うことはないだろうと直感した。それにしてもプールで泳ぐのは何年振りのことだろう。プールをぐるりと囲むようにして設えられた更衣室の一室で水着に着替え、勝手が判らずオロオロしながら水に入る。試しに25メートル泳いでみたが、それだけで息があがって苦しい。何度も休憩を挟みながら小一時間ほど泳ぐ。脳裏には岡田利規の小説に登場する女性がバンコクの夜のプールでしずかに一定のリズムを保ってひとり泳ぎ続けるイメージがあって、プールには内省をうながすような効果があるのではと期待していたのだが、実際はただ泳ぐことに必死で、とてもじゃないけれど水中で考えごとをする余裕なんてなかった。それでも背泳ぎはいい。下界の音が遮断され、天井を走る黒い線を追いながら進んでゆく、あの感じ。

 

20240813

 読書会。課題本は先日芥川賞を受賞したばかりの朝比奈秋『サンショウウオの四十九日』。ひとつの結合した身体に同居する二つの異なる意識という結合双生児の話で、なによりもまずこの設定に好奇心がくすぐられる。ただ、杏と瞬の二人が同じ身体で同じ出来事をべつべつの仕方で生きるという絶好の設定を小説として十分に活かせていないのではと感じた。あるいは行為主体の不確実さを梃にして責任と倫理の問題圏に踏み込んだり、互いに異なる指向性をもつ性愛の不可能性とか、記憶の掛け違いとか、作中でそうした物語の萌芽となりそうなモチーフがいくつも仄めかされているにもかかわらず、そのいずれもが十分に物語として展開されず、あくまで思索によって牽引されているふしがあった。

 この読書会に参加していたひとりはiPadで接続していたのだが、そのiPadにデフォルトで備わっているらしい人物自動追尾機能がやたらと仕事をしていた。カメラが人物を追いきれずにフレームアウトを許したあと、無人となった空の画面はゆっくりと引いていき、窓の外に映るロンドンの夕景を収めてゆく。およそ人間には撮れない不気味なカメラワークに身震いした。

 

20240814

 ふと窓の外に目をやると、夕陽を受けた雲が信じられないくらい綺麗だった。カメラでこの光景を収められないかとしばし奮闘するが、やはり眼前の美しさにはどうしても敵わない。ルイスダールでもこの美しさは描けなかったと思う。ぼくの部屋からは往来は見えないけれど、この瞬間、きっとパリの街中ではたくさんの人が同じ雲を見上げていたのだろうと想像をしてみると、ほんの少し愉快な気分になった。



20240815

 日本の終戦記念日は、カトリックでは被昇天の祝日。聖母マリア聖霊に連れられて昇天した日である。パリを訪問中の二組の夫婦と会う。

 一組目はベルギーのゲントから。夫はニュージーランド出身の植物を専門とする研究者。映画関係の仕事を辞め日本からゲントに合流した妻は、秋からの修士課程のプログラムの準備をしているという。マレ地区のイタリアンに寄ったあと、今年フランスで大ヒットを記録している『Un p’tit truc en plus』というコメディを観にいく。5月の劇場公開から破竹の勢いでロングランを続け、今年の年間興行収入ランキングでもハリウッド映画やモンテ・クリスト伯の大作を差し置いて圧倒的首位につけ、まもなく動員1,000万人という大台に届こうかという作品である。逃亡中の宝石強盗犯二人が障がい者グループのヴァカンスに紛れ込んで交流を深めてゆく話で、監督と主演の Artus はフランスで有名なコメディアン。いかにもフランスによくあるコメディで、なにがここまでフランス人を熱狂させているのか判らなかった。たとえば十年ほど前に同じように記録的ヒットを飛ばしていた『Qu'est-ce qu'on a fait au Bon Dieu?』のほうがよほどおもしろかったなあ。

 二組目はアメリカのサンタクルーズから。夫のほうは高校大学の同窓で、10年以上振りの再会を果たした。近況を訊けば、コロナ禍のタイミングで、アメリカの大学で研究をしていた妻を追うようにしてアメリカにわたって、ラーメン屋として起業したのだという。彼の生まれ育った実家もラーメン屋を営んでおり、その屋号を引き継ぐ形でアメリカで事業を展開し、最近ようやく黒字化を達成したそうだ。しかしアメリカからフランスを訪れる友人知人は、みなヨーロッパのほうが生活の歓びがそこかしこにあって素晴らしいと口を揃える。先月パリに来ていたジェシカもそれを「Art de vivre」と表現していた。アール・ド・ヴィーヴル、生きる術。

 

20240816 Paris - Heidelberg - Wald-Michelbach

 東駅からドイツに向かう鉄道に乗りこむ。三時間余りの乗車のあいだせこせこと最近の日記を書いていたが、しばらくさぼっていたせいで、こういうなんでもない文章を認めるのにも手こずってしまう。継続するためには他人の日記と並走する意識をもつのがいちばんいい気がするが、しばらく読み続けていた福尾匠さんの日記が終わってしまってから、そうした規範となるような日記が無くなってしまった。友人知人のブログやSNSも刺激になるけれど、見ず知らずの他人の日常を取り入れたい。

 いつの間にか列車はフランスから国境を越えドイツを走っている。窓の外には深い緑に覆われた山が見え、その山間に住居が点在して、ときどき河川があって、しばらくすると拓けた街が現れる。車窓からの景色は、建築の様式が異なるだけで、あとは日本の鉄道旅にそっくりだ。ハイデルベルクに到着。当たり前だがフランスの地方都市とは全然雰囲気が違う。目抜き通りを横ぎって、ハイデルベルクから山岳列車でネッカー川を遡行し、ヒルシュホルン駅でバスに乗り換え、ヴァルト=ミヒェルバッハという山あいの町に辿り着く。その名の森(Wald)と小川(Bach)の語句がしめすとおり森と川に囲まれた小さな町だ。停留所で待っていたレイラはこの町に一年ほど前に引越して、四人で大きな庭に小川の流れる家でシェアハウスをはじめたのだという。わたしたちの家は天国みたいなところだよ、と彼女は誇らしげに言いながら、その庭で育てている野菜や、あたりを自由に行き来する飼い猫たちなどひとつひとつを紹介してくれた。レイラは語学交換パートナーで、毎週決まった時間に大学のそばのシーシャ屋にいって、フランス語を教えてもらう代わりに日本語を教えていた。あれはもう11年も昔のことだ。

 

20240817 Wald-Michelbach

 雄鶏のけたたましい鳴声で目を醒まし、枕もとにある小さな窓を開け、寝泊まりしている小屋のすぐそばを流れる小川の水音に耳を澄ます。同居人のアンジェラと一緒に三人で荷台を連結させた車に乗り込み近所の工事現場から廃材を譲り受けにいった。ヴァルト=ミヒェルバッハは人口は一万人ほどで、山間の僻地にある鄙びた農村というイメージをもっていたのだが、思っていた以上に新しい住宅が立ち並んでいて驚く。午後に Kerwe と呼ばれる町の夏祭りまで出かけたときも、小さな町の小さな祭りには違いないが、過疎っている感じはぜんぜんなく、子どもも若者も集って活気があるように感じられた。夏休みに子どもたちが帰省をしているだけかもしれない。レイラはまだ暮らしはじめて日が浅いけれど、変てこな人が多くて楽しい町だと言っていた。スーパーでは車椅子のおばあちゃんが、ここを陣取って通過料をせしめてひと儲けを企もうと持ち掛けてきた。変てこな人だ。

 

20240818 Wald-Michelbach - Neckarstehtnach - Mannheim - Paris 

 小川に沿うようにして、薄いピンクの花が下がっている植物がたくさん自生していた。花の回りにあるこんもりとした房を軽く指で摘まむと、すさまじい勢いで破裂してあたりに種子を吹き飛ばす。これはドイツ語でSpringkraut、文字どおり「飛び跳ねる葉」と呼ばれているらしい(日本ではツリフネソウの名で知られているよう)。庭で放牧されている23羽の鶏たちをしばし観察。一羽一羽に名前が付けられていて、それぞれの性格のちがいを聞く。レイラが雌鶏が今朝産み落としたばかりの卵を焼いて朝食を用意してくれた。テラスのソファで、雨音に耳を澄ませながら昼過ぎまで茶をしばいて出発。これで「天国」の暮らしとも、レイラとも、しばしお別れだ。

群生するツリフネソウと鶏たち

 行きの列車で通って気になっていた Neckarstehtnach という町に途中下車。川があって、赤黄色系の土壁に木組みの構造が見える落ち着いた色合いの家々があって、プロテスタント教会があって、小高い丘のうえに城址が見えてと、どこを切り取ってもドイツらしい伝統的な景色に小さな感動を憶える。行きも帰りもネッカー川を遡行している遊覧船をいくつも見た。今回はたった三日だったが、この辺りを船でのんびり旅行するのも良いだろうなと想像を巡らせてみる。普段セーヌ河のパーティ船ばかりを見ているせいか、フランスの遊覧船よりもドイツのほうが絶対いいんじゃないかという気がする。

Neckarstehtnach にて

 再び列車に乗り込んでマンハイムに到着。近代的な建築が立ち並ぶ街路にトラムが行き交う光景に既視感を憶え、調べてみると案の定、世界大戦で徹底的に破壊された都市だとわかった。マンハイム市立美術館 Kunsthall de Mannheim を訪問。ふらっと立ち寄るだけのつもりが、思いのほか充実した時間を過ごした。19世紀フランス・ドイツの絵画や彫刻のコレクションを骨子にして、現代アートとの結節点を探ろうとするキュレーションの方針が明快でいい。この美術館は収蔵をはじめた初期のころにマネの《皇帝マキシミリアンの処刑》の一点を購入したらしい。オルセーの《マネ/ドガ》展で、マネが破り捨てドガが修復を試みた継ぎはぎのバージョンを見ていたが、まさかここに別バージョンの完全版があるとは思っていなかった。この作品が最初期にコレクションに加わったことが、今日にまで至るまでの美術館の性格や位置づけを決定づけたのではないかという気がする。

Édouard Manet, L'Exécution de Maximilien, 1868/1869.

 この三日間、自然のなかの暮しに大いに感銘を受け、レイラともさんざんそういう話をしていたのに、たちまち打って変わって都会的な嗜みに刺激を受けている自分の率直さに戸惑う。これくらいの軽やかさで自然と都市のあいだを行き来できるといちばんいいんだけどねえと、大都市へと戻っていく列車のなかで思う。パリでメトロに乗り換えると、隣には風船から笑気ガスを吸い込んでラリっている男がいたが、ちょうどスヌープ・ドッグを聞いていたので別に怖くない。アフリカ系の妙齢の女性が風船を買いもとめにきて、若い男の子たちは面白半分でカメラを向けてくる。男はひたすら笑いながら、暴言を吐き捨てていた。怪しいもんじゃねえんだよ、おれは立派なフランス人だからな、と、隣に座るぼくに向かって身分証を見せてきた。アブドゥラ・何某。相変わらずパリは混沌としている。