23日 日曜日
昨夜、ヴィスコンティが撮った『白夜』を観てから、『白夜』についてぐるぐると考え続けている。1957年に公開された軽妙なタッチのこのイタリア映画では、主人公の役どころにスターの階段を急速に駆け上がっていく脂の乗った時期のマストロヤンニが配されていたけれど、果たしてドストエフスキーはこんな軟派なキャラクターを描いていただろうか、あれはもっと陰惨な話ではなかったか。Kindle で見つけたので十数年振りに原作を再読。この頃ずっとぼくの身体を巣食っている孤独の感覚には、映画よりも小説のほうがずっと共振するものがあった。いつにも増してドストエフスキーの描く人物たちにそなわっている情動のようなものを欲しているような気がする。自分は『白夜』の名もなき主人公よりもずっと社会とかかわっていて、彼ほど芯からの孤独を生きているわけでもない。ただ昨日映画館で iPhone が壊れてしまったので、今日はインターネットの接続過多から解放され、自分の身ひとつでこのよく晴れた一日を読書や散歩に集中して静かに過ごすことができた。往来を行き交う人々の表情がよく見える。建築のささやかなディテールに目がいく。広告にある文字を残らず読んでしまう。眼前の現実にそのまま相対しながら生きることの芳醇さ。しかし同時に、何にも繋がることのできない底知れぬ不安。その両義的な感覚をみごとに掴んでいたのがドストエフスキーの『白夜』だったかもしれない。150年近く前のサンクトペテルブルクといまぼくが生きている現実が奇妙な仕方で重ね合りあう感覚に陥る。しかしいま『白夜』の主人公がスマホを持っていたらどうなっていただろう。彼は引きこもってスマホを抱えてタイムラインやショート動画を眺めているだけで世界を知り尽くしたと思えただろうか。
ソルボンヌ広場のカフェで『白夜』を読み終え、ソーヴィニョンのグラスを飲み干してから、坂を下って 二日連続で「Le Champo」へ。今度はブレッソンが撮った『白夜』を観る。このほうがずっと原作の世界観に近しいし、四夜で女と邂逅を果たす橋のロケ地がポン・ヌフだったことにわが意を得たりと思ったが(ヴィスコンティ版の小さな鉄橋のセットには違和感しかなかった)、作品の中盤でみごとに眠りこんでしまった。ブレッソンの映画は大抵寝てしまう。濱口竜介が『他なる映画と』かどこかで、映画で寝落ちしてしまう自分を肯定し、寝落ちから目ざめたあとに投げ入れられる別様の身体=時間感覚をもって映画と対峙することの豊穣さを語っていたように思うのだが、ぼくのブレッソンの寝落ちはいつもきわめて身体的に不快な体験で、目ざめた直後はぐったりとした身体のもと、感情表現がそぎ落とされた男女のぼそぼそとした会話を聞き届けることになる。いつになったらブレッソンをまともに観れるようになるのか?
24日 月曜日
職場から10キロの米俵を抱えて、修理に預けていたiPhoneを受け取りに行く。二日振りに電源を付けたが大した連絡は来ていなくて、ちょっとがっかりした。ぼくは何を期待していたのだろう。しかし何よりも再び音楽を持ち運ぶことのできる幸福が大きい。金曜日にボブ・ディランの伝記映画を観てから、この数日間は脳内でディランが歌い続けていたのだが、満を辞してヘッドホンをかぶって『Highway 61 Revisited』を聴いた。何度聴いたって「Like a Rolling Stone」は名曲がすぎる。しかし「A Complete Unknown」ねえ。あの映画を観てからボブ・ディランの虜になっている。
25日 火曜日
仕事のピークから徐々に脱け出しつつあるのを実感する。とはいえ遅くに家に帰って、夕飯を平らげて、ベッドに横たわって、死んだ目でYouTubeにあるジェットコースターのPOV動画ばかりを見続けてしまうのは、労働過多の反動なのかもしれない。
26日 水曜日
仕事から帰宅して、荷物を置いてから、「Le Grand Action」でジェシー・アイゼンバーグの『リアル・ペイン』を観る。奇しくも昨晩、どこかに旅行がしたいと思い立ってポーランドのいくつかの街への格安のフライトを調べていたところだった。近所の映画館でちょうどいい時間に掛かっているという理由で観た映画は、奇しくもニューヨーク出身の従兄弟どうしでポーランドに旅行に出かける話。旅に出たいという欲求を満たしてくれるような――というよりも、当面これよりよい旅はできそうにないと打ちのめされるような――旅行につきものの悲喜こもごもを美しく収めた作品。ジェシー・アイゼンバーグが完璧に自分のパブリック・イメージを理解し、そのイメージを裏切らない形でみずから作り上げた主人公像を演じていることも驚異的だが、何よりもキーラン・カルキンの名演が光る。ぼくの周囲にこんな最高なカンパニーはいないので、ポーランド旅行はまた別の機会に譲ることにした。
ポーランドを舞台にした作品とはいえ、やり過ぎではないかというくらいにショパンのピアノ曲が流れ続け、若干辟易とさせられていたのだが、帰宅してジェノベーゼを作りながら、ひと晩中ショパンを聞いた。ポーランドのどこかにある陰気なちいさな町の薄暗い街角でノクターンを聴いている自分を想像してみた。
27日 木曜日
二日連続で「Le Grand Action」。自宅から徒歩1分圏内に映画館が存在するありがたみ。徒歩20分圏内まで拡げたら、たぶん10館以上の映画館がある。いま地球上のほかどこを捜しても、パリ5区・6区ほど映画館が密集している地区はないのではないか。
ブラディ・コーベット監督の『ブルータリスト』。エイドリアン・ブロディの実母もまた1956年のハンガリー革命で米国に亡命をしたユダヤ人だったという。彼が演じたバウハウス出のユダヤ人建築家の立身出世の物語が、あたかも史実にもとづくかのように錯覚させられてしまうのは、ラズロとおなじような苦難の歴史を生きた人びとがごまんと存在してきたからだろうと思う。この映画の製作陣はかなり確信犯的に、あえてモデルがいるかのような形でフィクションを拵えている。映画を観終わって、ラズロ・トスとはだれなのか、フィラデルフィアの丘の上に建てられたあの建築はどこにあるのかと調べてしまったのはぼくだけではないだろう。検索エンジンを走らせてこれが完全なるフィクションだとわかったとき、やられたと思った。それにしても前半は面白かった。十五分のインターミッションで、周囲の客たちが続々と煙草休憩に出かけるなか一歩も動かずに、ヘブライ語がそえられた家族写真の映るスクリーンを見つめながら、ずっとわくわくしていた。
28日 金曜日
同僚の歓送迎会の終盤、ひどく酔っぱらった職場の最高権力者と言い争いになった。にこやかに進行していたはずが、ぼくか同僚が放った何気ないひと言が彼の神経を逆なでしてしまったらしい。お前はおれの気持がわかるのか? お前もおれが無能だと言いたいのか? 自分の倍以上の年齢のおじさんから大声で怒鳴られる。自分は相手がヒートアップすればするほど冷静になっていく性質だが、当然怒鳴られるのはいい気持はしない。それでも怒りに呑み込まれず、一歩も引かずに毅然と対応できた自分を褒めたい。すべてが終わったあと、組織のトップに立つというのはひどく孤独なんだろうね、と一緒に闘った同僚と苦笑いしながら別れ、ひとり帰路に就いた。
1日 土曜日
あなたの後ろにくっついて改札通っていいかしら。若い女性から職場からの帰路に地下鉄の入口で声を掛けられる。日付が変わったから、先月までのわたしの定期券が失効しちゃって。そう言われてはじめて三月に突入したのだと気づく。
家に帰ってからニュースを見ると、大西洋を越えた向こうの国でも最高権力者が暴れている。トランプ就任からおよそ一か月半、日々流れてくる信じがたいニュースの数々に感覚が麻痺しはじめていたが、ゼレンスキーとの会談の一部始終を観て、これは大変なことになったぞと思った。数日前に配信された生放送で東浩紀はかつてフランシス・フクヤマの言うところの「歴史の終わり」の終わりだと言っていた。冷戦構造終結以来、左派的なリベラル・デモクラシーの価値観にもとづいて世界は動いてきたが、トランプがその時勢を不可逆的に終わらせ、わたしたちは数十年後の未来がまるで想像できない新たなる時代へと突入したという。
昼過ぎからルーブル美術館に。さんざん躊躇っていたルーブル美術館の年間会員になってから二度目の訪問。ルーブルの2024年の一年間の総来館者数は870万人を記録したらしい。この土曜日も相変わらずひどく混んでいて、会場ではさまざまな言語が飛び交っている。今日の目当てはチマブーエの企画展。これまでチマブーエのことはまったく知らなかったのだが、彼はジョットの師匠として知られる十三世紀の画家であり、イタリア美術がビザンティンの影響下にあった中世美術からルネサンスに転換するにあたって決定的な役割を果たしたとされる。ヴァザーリの『美術家列伝』やダンテの『神曲』でもすでに伝説的な芸術家として言及されている一方で、現存する作品の点数はきわめて限られており、その生涯はまだ謎に満ちているという。この展覧会ではルーヴル美術館の所蔵する《マエスタ》が数年に及ぶ修復作業を終えて公開せれていた。また数年前に偶然、フランスのとある個人宅の台所で発見され、チマブーエの手による作品と判定されたという《嘲笑されるキリスト》も展示されている。
天使が身につけている衣服のひだ、幼きイエスが左手に握る巻物の潰れ具合。あるいはキリストを囲む男たちの顔立ちや表情のヴァリエーション、そのひとつひとつの立体性。ビザンティン様式の中世美術におけるフレスコ画などの平面的な表象から、ルネサンスにおける遠近法の発明をはじめとするリアリズムの追求に至るまでの転換がよくわかる。ルネサンス以後のイタリア絵画の豊穣を準備した重要な存在であったという説明にも頷ける。8枚のパネルからなっていた鏡合わせの作品から、現存するのはロンドン・ナショナル・ギャラリーの荘厳の聖母像、ニューヨークの笞刑図、ルーヴルの嘲笑されるキリスト像の3点のみ。感動のあまり小さなパネルの前からしばらく動けずにいると、隣りの老婆から声を掛けられる。なんと職場のイベントによく来ている常連のひとりだった。美しいねえ。残りの五点が現存しないようなのが残念ですね。ひょっとして、きみんちの台所にあったりするんじゃないの?
小ぶりながらも充実の展示で、気づけば二時間も経っていた。中世と近世の狭間。まだ「芸術家」なる概念が前景化しすぎず、人びとは宗教画の文法の枠内でより神に接近しようとしていたわけだが、その試みに心血が注がれていた中世美術は本当におもしろい。アイスランドで撮られた若者の映画を観ながら、ぼくの心はまだ中世に留まっていたかったようで、瞼の裏にはチマブーエの聖母子像の残影が何度も蘇ってきていた。どうして自分はこうも中世に惹かれるのか。